ちょっとマニアックに感じる話かもしれませんが。
再放送を録画してみた、NHKの「100分de100分フェミニズム」、こうした番組が作られたのはよいことだと思った。あまりフェミニズムに縁がない人、特に男性には、ちょっと重いかもしれない。ある部分では、見たくないものを見せられているのではないかと思う。
加藤陽子が紹介する伊藤野枝が書くことは、すくなくともぼくたちの親の世代ではその通りだったくらいのことだし。マーガレット・アトウッドの「侍女の物語」も、あながちないとはいえない未来(少子化問題を女性が子供を産まない問題としか理解していない日本の政治とか、中絶禁止をいう米国福音派とか)。
それを声高に言うのではなく、ていねいに解説していくのは、あたりまえではあるけれど、説得力あった。再放送も終わってしまったのだけど、サイトに残されたプロデューサーとディレクターが書いていることだけでも、読まれてもいいと思う。
いい番組だったと思うけれど、それでも、気になったことを指摘しておきたい。
第2波のあと、ポストフェミニズムがくる。これは、ある程度自由を得たので、フェミニズムはいらないという人たち。文学作品でいうと「ブリジット・ジョーンズ」とか。キャリアを持って働く女性にもそういう人がいる。
それからクィア理論。実は、第2波フェミニズムについては、白人中産階級のためのフェミニズムだという批判がある。そこから黒人女性、高齢の女性、レズビアン、トランスジェンダー、障碍者などが抜け落ちているという。そうした人たちを包摂したフェミニズムが求められたし、クィア理論もその1つ。
女性が男性並みになるのではなく、女性も男性も自分らしく生きることができる社会を求めたのが、第3波だった。
ただ、では第2波は過去のものかというと、そうでもない。社会的公平性はいまだに実現していない。だから、第2波と第3波は同時に存在している。
今回の番組は、フェミニズムでいえば、第2波までを1つのくぎりにしているのだと思った。でも、声高な主張にしなかったので、フェミニズムがこわいものだというイメージを持っている人にとっても、理解できるものだったと思う。
それでも、第3波、あるいはポストフェミニズム以降が語られる続編があってもいいと思うのだ。
「男同士の絆」は、男性によるホモソーシャルな社会(男同士の熱い友情、会社での連帯、とか)と、けれどもそれが性的な関係にはつながらない、むしろホモフォビック(同性愛嫌悪)となっていく構造。女性はそこでトロフィとして存在している。そんなことが論じられている。
でも、その後、セジウィックは「クローゼットの認識論」を書く。それは、ジュディス・バトラーの「ジェンダー・トラブル」と並ぶ、クィア理論の古典となっている。セジウィック自身が、第2波と第3波をつなぐ存在だということだ。
ということで、続編では、例えば田中東子がポストフェミニズムを語り、藤高和輝がジュディス・バトラーを語り、小川公代か岡野八代がケアを語り、文学作品として、小谷真理がル=グゥインの「闇の左手」と「愛がケメルを迎えし時」の間の変化を語る、清水晶子が最後にまとめる、というのはどうだろうか、と思うのだが。