こちら葛飾区水元公園前通信869

tenshinokuma2018-01-30

 こんばんは。
 まだ、年賀郵便、出していません。どうせ封書なので、料金は変わらないんですけどね。

 まずは宣伝。
 トーキングヘッズ叢書No.73「変身夢譚」が出ました。いちおう、ぼくも書いています。ぜひ、今回もお買い求めいただけますよう、よろしくお願いいたします。変身というと、トーキングヘッズ叢書としては鉄板のネタだなあって、そんな気がするほど、充実です。ぼくはともかくとして。それに、表紙の写真がとても素敵です。

 1月は、名古屋に2回、大阪に2回の日帰り出張で、何をやってんだか、と。おかげで、来月のクレジットの支払いはけっこうふくらんでしまいました。クリスマスプレゼントもお正月のお酒もみんなカードだったし。
 そのくせ、仕事の入金は来月とか再来月だったりして。ということで、いわゆる運転資金でどうにかなっています。

 でもまあ、それほど忙しいというわけではなく、ぼちぼちやっています。
 大阪でも名古屋でも銭湯に行ったわけですが、なかでも大阪の寺田町の源ヶ橋温泉は、建物が有形文化財という、そういう銭湯です。行くと自由の女神が出迎えてくれますし。
 杉浦日向子の「入浴の女王」を読んでから、ずっと行きたかった銭湯なのですが、念願かなって、といったところです。ああ、入浴で自由の女神か。

 冬なので、トレッキングは休みにして、久しぶりに行ってみたかった、生田の日本民家園にも足を運んでみたりして。ボランティアの方々がいろりで火を起こしていて、民家にあがりこんで、火をかこんでまったりとしました。

 1月は、新幹線にたくさん乗ったので、本もたくさん読みました。
 でも、最初に取り上げるのは、1956年の岩波新書から。高桑純夫の「人間の自由について(改訂版)」です。ずっと昔、図書館のリサイクルコーナーでもらってきた本ですが。
 今年は明治150年だそうですが、それってどういうことかっていう。ネガティブに、明治維新によって太平洋戦争に突き進む体制がつくられた、ということを、見据えなきゃいけないのでしょう。さすがに「東京新聞」はそういう記事を書きますが。
 高桑は戦後すぐ、「日本の自由について」を出します。たぶん、西洋の哲学を引用しつつ、さまざまな自由についての思想をまとめた本だと思います。というのは、(改訂版)で書き加えた箇所が、明らかに当時の現実の日本を意識したものだからです。
 戦後、日本は大日本帝国の呪縛から逃れ、民主的な国になる、そういう期待があったのだと思います。けれども、10年たってみると、時代は巻き戻されます。それを象徴するのが、高桑による、家制度に対する批判です。
 高桑は、明治維新について、民主化はある程度のところにとどめられ、結局は将軍ではなく天皇を中心とする統治による国家をつくっただけだといいます。そして、天皇制を強化するために、親族一同がまとまった大家族から核家族のような小家族まで、封建的家制度の導入を拡大していきます。おそらく、夫婦同姓が日本の伝統だとねつ造されたのも、このあたりのことだと思います。
 フェミニズムは家父長制を批判してきました。まさに、個人の自由よりも家という存在が上にある、ということです。
 ところが、戦後もなお、家制度は残ります。そこに、高桑は戦後の民主化が止まったところを感じ取ります。しかも、例えば労働組合などに支援される革新勢力ですら、この家制度を維持します。
 この思想は、個人よりも国家が優先するという思想に容易に結びつきます。
 現在の日本では、個人の自由が尊重されない、あるいはそういった思想がはびこっています。それが、例えば自民党憲法草案のような形になっています。
 結局のところ、高桑の56年時点での指摘に対応した形では、この国の多くの人々は自由について考えてこなかったのではないか、その結果として今があるのではないか、そう思ってしまうのです。

 そして、フェミニズムは確かに家父長制を批判してきました。けれども、その先の自由について、フェミニストである人たちがどれほど考えてきたのか、疑問に思うのです。ポルノグラフィと表現の自由ということについては、やはり、一部のフェミニストには違和感を持ってしまうのです。

 中沢新一の「熊を夢見る」「虎山に入る」(角川書店)も読みました。たまに、中沢の本を読むと、気持ちが自由になる気がします。
 ちょっと反省しなきゃいけないな、と思ったのは、中沢による「環境ではなく自然」という指摘でした。自分でもいちおう、環境ジャーナリストとか言ってみたりするのですが、でも環境って数字的なことであって、自然はそうではない、と。環境って、人間の視点からなんだけど、自然はそうではない、と。自然保護と環境保全、確かにちがうなあ、と。
 環境では持続可能性が求められるけれど、自然というときは、ときに破滅的なこともある、と。
 それでも、人間の視点から持続可能であるため、環境問題というのは対応すべきだとは思うけれど、自然がどういうものかは忘れてはいけないな、と反省したわけです。

 大塚英志の「日本がバカだから戦争に負けた」(星海社)も読みました。戦後、そういうふうに思って出版社を立ち上げた、角川源義にはじまる、角川書店の歴史を語った本ですが、もちろんタイトルは一般的なことで現在の勘違い右翼への批判でもあると思うのですが。
 源義が始めた角川書店は、けっこうオリジナルのコンテンツが少なく、いわばプラットフォームビジネスだった、という指摘が面白いですけど。

 望月衣塑子の「新聞記者」(角川文庫)は、第3章から読むと面白いです。ポンコツ官房長官の記者会見のやりとりがどんなものだったのか。それが語られるだけでも、十分です。でもまあ、新聞記者としては、このくらいがあたりまえではあるのですが。ぼくも記者クラブにいたことがあるので、一般紙の新聞記者の多くがどれほど大本営発表しか記事にしていないか、目の当たりにしているんですけどね。
 でも、申し訳ないけれど、第1章と第2章は読む価値がないです。

 中川剛の「町内会」(中央公論社)も読みました。これも1980年の本で、図書館のリサイクルコーナーでもらってきたのかな。
 町内会っていうと、戦前、隣組みたいな形で戦争に利用され、そのために組織された、そんなものだという記述を、源川政希の本で読んだことがあるのですが、中川は、そうではなく、地域の自治組織として歴史も古いし、アジア全体で同様のものがある、と指摘します。
 ということで、地域の自治、ということを論じてはいるのですが、中川は同時に、戦前の誰かが権力を持った地域の自治が、解体しきれずに残ったことも指摘します。
 それでも、こうした自治というのは意味があるものだとも。
 行政の出先機関のような町内会なら不要ですが、あるていど、自分たちのことは自分たちでしていかないと成り立たない、というのも現実としてあると思います。中川は、結局のところ、地縁社会から社縁社会にとってかわてしまった、というような当時の社会も指摘します。
 ただ、現在はそれだけではなく、複数の縁を持つ社会になっていると思います。地縁や社縁だけではなく、ネットがあるし趣味のコミュニティもあります。ひとつの縁だけではない中で生きています。
 それでも、高齢化社会にあたっては、地縁は重要だし、そのためには町内会があってもいいと思うのです。

 あと、友成純一の「蔵の中の鬼女」(アトリエサード)も読みました。アル中にはなりたくないと思いました。90年代のよくできたホラー短編がたくさん収録されています。

 そうそう、山田芳弘の「へうげもの」(講談社)が完結しました。古田織部を主人公とした戦国時代のマンガですが。武力ではなく笑いというか可笑しみで天下をとるという。笑いをさそうゆがみこそが、織部の目指すところ。こういう感性、好きです。ロックです。
 NHKの大河ドラマにならないかなあ。主演は誰がいいだろう?