こちら葛飾区水元公園前通信793

tenshinokuma2012-09-22

 もう夏は終わってしまい、お彼岸になってしまいました。みなさまはいかがおすごしでしょうか。
 ぼくはというと、8月はやたらと忙しかったです。おかげで、子どもたちと夏休みを楽しむ、っていうのがなかったです。どこかに行ったかっていうと、「ドラゴンクエスト10」のオンラインの世界ですか。
 釣りも行かなかったしな。ウォーキングクラブで山を歩くっていうのも、先日の陣馬山→高尾山のあと、やってないし。

 あえて言えば、町内会のバスハイクで、スパリゾートハワイアンに行ったくらいだな。いわきは遠かった。日帰りだったけど、遊ぶ時間よりもバスに乗っている時間のが長かったからな。温水プールと温泉の中間くらいで、それはそれでおもしろかったけど。
 うーん、お葬式が二つもあって、2回も栃木県に行ったというのもあった。不幸があったわけで、あまりいい話ではないのだけれども。

 そうだ、夏休みの最初の時期、まだ時間に余裕があった頃、埼玉県立美術館の「ウルトラマン展」と東京都現代美術館の「特撮展」と科学未来館の「マンガを科学する」は行ったんだっけ。帰ってきたウルトラマンに出てきたマットアローを見て、オスプレイだって思ったのは、ぼくだけじゃないと思う。
 最初の2つの展覧会については、面白かったな。それを美術として見るか、技術に裏付けされたものとして見るか、というのはあるけれども。

 忙しくて、深夜アニメもあまり見ていないや。「氷菓」だけだな、欠かさず見ていたのは。
 「氷菓」は、評価が高いけど、ぼくは実はけっこう不満がある。とくに男子キャラのセリフが小説の中のセリフみたいで、すごく不自然で、そこでどうしても気持ち良くなかったということ。何なのだろう。男子キャラを描くのが上手じゃないのかな。セリフだけじゃなく、やっていることも、無理があるっていうか。聡くんは、自分をデータベースって規定しちゃだめじゃんって思うし、奉太郎くんもいつまで省エネをきどっているんだって、そういうのもあるな。結局、ぼくは千反田えるの「私、気になるんです」というにどきどきして見ていたわけだな。まやか(漢字を忘れた)の徹底した普通の女子っぷりも好きだったし。
 ミステリーとして、よくできている、らしい。そうかもしれない。でも、壁新聞部とかお料理部とか、無理があるだろ、とか思うし。そもそも古典部って何をもって古典部なのかって。なんだか無理がある。
 とか、文句を言いつつ、しっかり見ていたわけです。

 実は、今期は「貧乏神が!」がフェイバリット。って書くと、頭を使わないのがいいのね、とか言われそうだけど。
 他は、本当に時間がなくって、録画したままになっている。

 本の話をします。
 松浦理英子の「奇貨」(新潮社)は、ほんとうに良かったです。とりあえず、男女関係からセックスを抜いてみて、それで何に執着し、何が自分を取り戻してくれるのかな、ということを考えてみます。糖尿病性的不能中年男子とレズビアン女子の同居という設定なのだけれども、何をもって自分であることを支えるのか、というのが奇貨という。
 「犬身」もセックス抜きだったけど、それでも依存するものが本質としてある、っていうのかな。そこは同じだと思う。それを献身として描くか、裏切りとして描くか、というのはあるとして。

 松浦と同じくらい久しぶりなのが、赤坂真理の「東京プリズン」(河出書房新社)で、これも文句なく傑作。タイトルからして、戦後というのがキーワードっていうのがわかると思う。主人公のマリは、中学時代にアメリカの田舎に留学するが、そこで進級にあたって、ディベートをすることになる。それは、昭和天皇の戦争責任をテーマに、マリは有罪を主張するという役をおしつけられる。そこであらためて、戦後について何も知らないことを思い知らされる。そのマリを助けるのが、現在にいる40代のマリ。
 赤坂が描くように、戦後というものが見えなくなっていると思う。本当にそう思う。この議論は、笠井潔が「8.15と3.11」で書いたこととも重なるのだけれども、敗戦がなかったことになっている。8月15日になると、毎年のように「あやまちはくりかえしません」と語られるが、現実には、日本以外の場所で繰り返されたあやまちが戦後すぐの高度経済成長の原動力になっていた。

 水村美苗の「新聞小説 母の遺産」も良かったです。水村は未完の新聞小説夏目漱石の「明暗」の続編でデビューした。ここでは、祖母が明治時代の新聞小説尾崎紅葉の「金色夜叉」を通じて、自分を同一化し、かけおちする、といった過去、あるいはその娘である母親の過去を、そのことを考えながら、介護し、死後は離婚にふりまわされるという。ヒロインにとって、奇貨は、それこそ母の遺産だったりする、という話。これが、実際に新聞小説として書かれている、というわけ。
 一人で生きていくことになってようやく自分を取り戻すヒロインというのは、そういうものかな、とも思う。というか、そうならないと自分を取り戻せなかったというべきなのか。どろどろした恋愛から自由になるっていうのは、悪くないっていうか。

 伊藤計劃円城塔の「屍者の帝国」(河出書房新社)を素直に面白かった、と言えないのは、まあ、いろいろあるというか。何だろう。例えば、円城はこんな小説を書くことができるんだ、ということを思うかもしれない。普通の話を、という意味で。それは、伊藤の残したプロローグの続きを、「道化師の蝶」みたいな話にはできないよな、ということでもあるんだけど。
 では、円城は伊藤のふりをして書いたのかというと、そうでもない。決定的に違うのは、伊藤の小説にときおりみられる、ものすごく感傷的なシーンが、ここでは出てこないということ。人は簡単にゾンビになる。でも、それはどんな存在なのか。ゾンビになる前の人にどんな意味があったのか。そんなことを考えこんでしまう、ということはない。あるいは、ゾンビの兵士は、たぶん、互いがハンバーグになるまで戦うことをやめない。というとき、では「虐殺器官」での痛みを痛みと感じなくなった兵士とどう違うのか、とかも、考えない。
 でも、円城はそんなことはわかっていたんだと思う。だから、主人公についてまわった屍者のフライデーが主人公に替わって記述している、という設定をとったし、ゾンビは感傷的にはならない。
 という仕掛けがあったり、円城らしいペダントリックな話をてんこもりにしてみたり、ということがあって、密度の濃い、そんな作品。素直に面白いといえなかったのは、ずれをうまく受け止められなかったからなのかもしれないな。

 というわけで、「屍者の帝国」も含めて、密度の濃い小説ばかり読んでいて、疲れたので、後半は、ヒッグス粒子なんかに関する新書を読んでました。

 まあでも、一番疲れるのは、日本の政治状況なんですけどね。政治家もそれをめぐる報道も、救いがないので。

 そうそう、9月17日に発売された「週刊エコノミスト」に「電力不足のウソ」という記事を書きました。読んでくださいね。立ち読みでいいですので。