こちら葛飾区水元公園前通信901

 あけましておめでとうございます。

 って、もう1月も終わっちゃいますね。

 

 まずは連絡事項から。

 トーキングヘッズ叢書No.81が発売されます。1月末には書店に並ぶ予定。今回も、ぜひともお買い求めいただけますよう、よろしくお願いいたします。

 特集は「野生のミラクル」。野生ですよ。

 ぼくは、少しは思っていることが書けたかな、というところでもあります。

 

 白内障の手術をしています。これを書いている時点では、左目を手術したところで、来週は右目です。

 手術台は、なんか歯医者のような雰囲気。10分とかからず終わるのですが、やっている間、目を照らすまぶしい光と機械の音が、なんだか60年代SF映画みたいで。とはいえ、麻酔がきいているとはいえ、目を洗浄されたり切られたりですから、力が入ってしまいます。

 それなりに奇妙な体験ですね。

 前後がめんどくさくて、説明会あったり、目薬さしたり。

 今現在、左目は0.1以上になっていて、右目は悪いままなので、左右でかなり視力がちがっていて、つらいところです。

 あと、焦点が固定されているので、遠くを見る眼鏡か近くを見る眼鏡のいずれか、あるいは両方が必要だったり。

 とまあ、そんなこんなです。

 

 まだ、年賀状がわりの牛乳通信も出していないですが。なんか、土日も忙しくって。仕事で厚木に行ったり、大宮でトークライブしたり。

 ゼミもあったし。

 

 そんな1月でしたが、どんな本を読んでいたのかというと、まずは石神茉莉の「蒼い琥珀と無限の迷宮」(アトリエサード)。ホラーです。人形の写真が美しい本です。ホラーな玩具店がよく出てきます。でも、ぼくの好みはぬっぺらぼうかも。

 

 アリエット・ド・ボダールの「茶匠と探偵」(竹書房)、カバーを見て買ってしまいました。欧米のSFを読んでばかりいると、宇宙にいるのは欧米人かよって思うかもしれませんが、中国人のがたくさんいます、くらいで、まあ、そうだよな、とは思います。

 思ったほどのれなかったな。そういう宇宙の設定が共通する短編集なんですけど。意識を持った船とかそれがどうやってできるかとか、茶そのものについても、いろいろそろってるんですけどね。

 

 藤井彰夫と西村博之の「リブラの野望」(日本経済新聞出版)は、いただきものですが。

 リブラというのはフェイスブックの仮想通貨。リブラがどのような意図のもとできかくされ、どのように構成され、何をしたいのか、というのを、著者らが推測・解説している本。

 リブラはビットコインとちがい、ドルやユーロなどの通過をバスケットにして価値を担保しているため、価値の変動は少なく、投機性がないこと。

 とはいえ、こうした通貨ができると、各国政府の中央銀行からシニョレッジ(通貨発行益)が失われること。

 そうであっても、決済のコストを大幅に減らすことができ、スマホがあればお金のやりとりが簡単にできること。

 信頼の裏付けにブロックチェーンを使っていること。

 とまあ、そんな感じです。何となく、フェイスブックがやろうとしていることがわかります。

 でも、同時に、そもそも、通貨の役割って、小さくなっているのではないか、という仮説がぼくのなかにあります。通貨だけで富の再分配はできないんじゃないか、と。

 そんなことも考えました。

 

 早稲田文学の冬号、特集はポストフェミニズム

 問題意識って、よくわかるのは、ポストというのがその後のという意味ではないということ。その意味で、藤高和輝が竹村和子に向けて書く文章が、そうなっているし。

 藤高は、ジュディス・バトラーについて、第三波フェミニズムとくくることに意義をとなえているが、あえてそれに反して思う。

 第一波フェミニズムは、参政権獲得など、基本的な権利の獲得の社会運動ということでざっくりくくればいいだろうか。第ニ波フェミニズムは、もうちょっと多様で、制度だけにとどまらない、ジェンダーの不平等を問題にしてきたと思う。けれども、同時に、そこでいう女性というのは、白人女性であり、その育児を支援するヘルパーの有色人種も若い世代に経験を伝える高齢者女性もそこには含まれない。でも、そうした批判はすでに、第二波フェミニズムの中にあった。また、制度にとどまらない社会の不平等を問題にしていく上で、上野千鶴子のようなマルクス主義フェミニストは一定の役割を果たしたと思う。同時に、ウーマンリブ運動のように、忘れられたものもある。そこでは、女性が性の主体として自分を取り戻そうとした運動もあった。

 ジュディス・バトラーはエッセイの中で、マルクス主義フェミニズムのように、男性と女性の2つのジェンダーの非対称を問題にしている時点で、ジェンダーの多様性を否定しているというようなことを述べている。第三波フェミニズムとあえて言いたいのは、ジェンダーについて、男性と女性という区分けではなく、その多様性が前提となっているということ。もっと言えば、自分らしさを取り戻すこと、というのが、目指すところなのではないか。

 けれども、そもそも、男性と女性の非対称ということすら何も解決されていないのに、その先に進む、ということで、ポストフェミニズムというのが、フェミニズムの後ではなく、それでもその先に進むという意味なのかもしれない、と思う。

 そして、そうした特集が組まれる背景には、日本において、第二波フェミニズムすら十分に進まず、前述のようにマルクス主義フェミニズムがそれなりの成果を出したとして、なお、そこに加えられた批判に何一つ答えることができない、その状況、日本における周回遅れのフェミニズム、ということがあるのではないか。

 そんなことを考えてしまう。

 ところで、ここに掲載されたバトラーのエッセイを含む、「ジェンダーをほどく」は今週、明石書店から刊行されるとのことで、楽しみです。

 

 それはそうとして、東村アキコの「偽装不倫」を7巻まで読みました。偽装不倫をしている主人公の鐘子よりも、本当に不倫している姉の葉子の方が気になるのって、ぼくだけでしょうか。

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