こちら葛飾区水元公園前通信913

 こんばんは。

 

 もうすぐ今年が終わりますが、いかがお過ごしでしょうか。

 なんか、コロナ危機で、よくわからない1年でした。

 

 今月もいろいろ本を読みました。

 話題の斎藤幸平も。まずはマイケル・ハートマルクス・ガブリエルらとの対談を収録した、「未来への大分岐」(集英社新書)。ガブリエルの考えを対談だけでうまく把握できないなあ。ハートは「帝国」とか読んでいるので、わかるんだけど。

 ということで「人新世の「資本論」」(集英社新書)ですね。これが売れているとか。

 マルクスの未完の「資本論」だけど、晩年、自然資本のことを考えていた、とか。確かに、人は自然資本を収奪して生きているということは否定できない。気候変動問題についても、ざっくりいえば温室効果ガスの濃度というのが自然資本になっているので、それを過剰に消費する経済を改めなきゃいけない、ということになる。でもまあ、それは資本主義をやめること、でもある。

 成長を前提とする資本主義に対し、成長しなくていい社会というのを想像してみてはどうか。脱成長社会、それが脱成長コミュニズムにつながっていく。

 そうなのかもしれないと思うのだけれど、正直なところ、人間はそこまでかしこいわけじゃなく、目先の欲望しか理解できない。そう思う。

 この本で最初に、SDGsは「大衆のアヘン」である、と語られる。持続可能な開発による成長が可能なのだと、そういった信仰によって騙されているというのかなあ。

 実は、SDGsというのは、「詭弁」でしかないと、ぼくも思っている。結局のところ、差し迫った気候変動問題に対しては、詭弁を弄していくしかないというのが、正直なところ。

 その一方で、斎藤が示す、ワーカーズコープは、法律もできたし、ちょっと希望が見えるところかも。

 

 松尾匡の「左翼の逆襲」(講談社現代新書)。ここでも資本主義は否定されている。コロナ危機が明らかにしたのは、世の中、ブルシットジョブにつく人だけが高収入で、エッセンシャルワーカーは貧困と隣り合わせにいるということ。

 生産性が向上したら、労働は増えるし、エッセンシャルワークの比重が増える。一部のブルシットジョブにつく人だけにお金が集まる。でも、人は生きているだけで価値があるのだから、そんな生産性で人の価値を決めない。労働者が生身の個人として経済コントロールを取り戻すこと。

 何だか、ワーカーズコープみたいですね。

 

 でも、松尾は現代貨幣理論(MMT)にも理解ある経済学者だし。

 この2冊で述べられていないのだけれど、資本主義にはジレンマがあって、それっていうのも、貨幣そのものは価値が担保されたもの、中央銀行が(かつては金が)それを守っていたものだったけれど、資本主義が成長を求めるということは、貨幣の供給が増えることでもある。そうなると、中央銀行が貨幣の価値を守ることなどできなくなる。

 でも、そもそも、何のために貨幣があるのかといえば、富の再分配のためのしくみの1つのピースではなかったか。税金と組み合わせたしくみということ。だとしたら、通貨を供給して適切に再配分していけば、いいのではないか。

 

 コロナ危機で感じたことの1つは、多くの事業が存続が難しくなり、失業者も増えたことなのだけれど、本当に必要なもの(食糧など)は生産され続けていたし、とりあえずそこそこ豊かに暮らせる生産力は維持されていた。けれども、その豊かさの再分配ができなくなってしまったということなのだろう。

 そうしたとき、中央銀行国債を引き受けて、お金を配るというのは、実はけっこう合理的だし、それで誰もが生きていけるのであれば、問題ない。ブルシットジョブは必要ない。

 

 白井聡の「武器としての「資本論」」(東洋経済)も読みました。マルクスの「資本論」の第1巻を解説した本になるのだけれども、ここでも資本主義の限界が指摘されている。斎藤が晩年のマルクスを研究し、現在の環境問題・自然資源の問題を論じているのだとしたら、白井はむしろ新自由主義を批判し、イノベーションがいかに人を幸せにしないかを論じる。

 そして、階級闘争が必要だとも。

 

 でも、一番考えてしまったのは、ジョアン・C・トロントと岡野八代の「ケアをするのは誰か?」(白澤社)かも。

 「新しい民主主義のかたちへ」というのがサブタイトル。トロントの問題意識は、第二波フェミニズム批判からスタートする。

 女性にも男性と同様の権利を求める運動の向こう側に、例えば会社で管理職となった女性の家庭では、移民や低所得階層のベビーシッターがいる、という構造だ。そうした分断をしてまで、女性の地位の向上が正解なのか。

 第二波フェミニズムは一定の成果を上げたし、多少なりとも家庭にしばりつけられない女性の選択肢を増やした。けれども、それは、松尾が言う、女性にもブルシットジョブにつける権利が与えられた、ということなのだろうか。

 その一方で、ケア労働は、女性というジェンダーに対応して設定されている。それは、エッセンシャルワークの一部でもある。例えば、看護師であり、介護士であり、保育士である。

 松尾が言う、「生きているだけで価値がある」ことを実現していくためには、ケアは欠かせない。だとしたら、民主主義というコンテクストにおいて、エッセンシャルワークとしてケアをきちんと位置付けることが必要ではないか。そうすることで、誰もが権利が守られる。

 政治学者の岡野は、トロントの短い講演のテキストを解説しつつ、こうした政治の可能性を語る。

 

 最近、ツイッターで、#お母さん食堂がばずっている。ファミリーマートの商品で、キャラクターが香取慎吾。なぜ、お母さんでなくてはいけないのか、というのが、一部のフェミニストの批判。

 少なくとも、家庭において食事を提供する、ある種のケアを担っているのが、お母さんという役割であり、そのジェンダーファミリーマートのキャンペーンで固定化されるという批判。その一方で、香取がお母さんであることで、多少なりとも脱ジェンダー化できているのだろうか。

 ケアとお母さんという役割が切っても切れないように、それをまとめて脱ジェンダー化することが必要なのかもしれない、と思う。

 もっとも、この批判が、どうしても違和感が残ってしまうのは、一部のフェミニストが、あいかわらず攻めやすいところしか批判していないから、本質的な問題を放置しているからなんだろうなあ、ということも感じてしまうのであった。

 

 岡野は、オリンピックでこんな競技があったとき、どこが勝つのか、という寓話を引用する。

 参加者全員が一定時間でどこまで行けるのか、という競争。

 A国は早く走れるものは早く走り、遅いものは置いていくという戦略をとった。もちろん、先頭集団は先まで行くが、残されていく人もいる。

 B国は男性を自由に走らせ、女性には遅い人をケアし、先に進めていくという戦略をとった。男性は先に行くが、女性はA国よりも遅れてしまう。私は早く走れる、と不満をもらす女性もいた。

 C国は全メンバーが遅い人をケアし、全体が先に進むようにした。

 結果として、勝ったのはC国。一番後ろの人がどこまで進んだのか、という競争なのだから。

 

 そのオリンピック、今年は延期となったけど、来年はどうなるのかな。

 ぼく自身は、オリンピックそのものを否定はしないけれど、そこまで国をあげてやるものだろうか、と思う。本当に思うのだけれど、金メダルをとる選手がたくさんいる国よりも、たくさんの人がスポーツを楽しめる国の方が、絶対に豊かだと思う。

 お金はそこに使うべきだと思う。

 オリンピックはもう、開発や経済成長のために行われるものではないし、したがって1つの都市で集中的に行う必要もないと思う。適切な競技場があるところで、分散開催でいいし、廃墟となるような競技場をせっせと建設する必要もないと思う。

 それより、誰もが使える競技場をつくってほしい。

 

 成長というマジックワードは、先端しか見ていない。でも、SDGsの理念は、誰一人取り残さないもの。

 SDGsと言ってしまうことは、詭弁だと言ったけれども、それでもその理念は、やはりマルクスの思想に近いものではないかと思う。