こちらつつじが丘野川どんぶらこ通信952

 こんにちは。

 気が付くと11月ですね。

 この週末はけっこう寒いです。

 

 先月から筋トレをはじめました。平日は腹筋、休日は全身ストレッチ、水曜日は水泳、トレッキングの日はお休み、くらいで。

 糖尿病の薬を飲み始めたら、どうしても身体がだるくなるので、医者と相談して、薬をやめて、筋トレにしたということです。下半身はわりと筋肉がついているので(これもトレッキングのおかげ)、上半身をメインに。筋肉が糖分を燃焼させてくれるということです。

 デペルザ(SGLT2阻害剤)を飲むと、尿から糖が排出されて、体重が減少します。あと、それでも足りなくて、エクメット(インシュリンの分泌をうながし、肝臓から糖の排出を抑制する)も飲んでいたのですが。でも、どっちもやめました。

 まあ、それで血糖値が下がっていればいいんですけどね。でも、筋トレと食事制限(夕食の炭水化物は減らす、とか、甘いものは食べない、とか)で、減った体重をリバウンドさせていないし。まあ、そんな感じです。

 ウエストも少し細くなったかな。それでも標準体重よりは多いわけですが。

 

 たまには美術展関連の話題。

 

 先月は、与偶展に行きました。場所は銀座のヴァニラ画廊。

 与偶さんは球体関節人形の作家なのですが、トーキングヘッズ叢書では「辛しみと優しみ」の連載があります。傷つけられた人形を製作しているのですが、痛々しいというよりも、どれほど傷つけられたとしても生きる意志を失わないという、そういった強さを持った人形です。それは、観る人を勇気づけてもくれます。

 数年前にも同じヴァニラ画廊の個展を観たのですが、今回は少し違う印象を受けました。前回と比較して、どこか穏やかさを感じたのです。時間のせいかもしれません。

 前回とちがって、与偶さんが在廊していたので、少しお話しもしました。人形も抱っこさせてもらったし。貴重な経験でした。それに、基本的には撮影禁止なのですが、2体は撮影可能なので、スマホで撮影させていただきました。なかなかよく撮影できた写真もあって、ちょっとうれしかったです。

 

 同じヴァニラ画廊の古屋兎丸展も行きました。これはまあ、付き合いだったんですけど。「ライチ光クラブ」がメインで。実は読んでいないのだけど、丸尾末広の先にある、という感じでしょうか。

 

 森アーツセンターの「ブラックジャック展」では、手塚治虫の原画をたくさん見たのですが、修正がすごく少なくって、正確なペン入れが多作につながったのかなあと思いました。

 

 世田谷文学館江口寿史展は行きたいですね。

 

 トレッキングの話も。

 

 今月は、箱根の矢倉岳に行きました。

 小田急線で小田急に近くなってくると、なんだか目立つ単独峰があります。さして高い山ではないのですが、とても気になっていました。おにぎり形の山といえばわかるかな。それが矢倉岳です。

 小田急新松田駅から、行きは直通のバスで矢倉沢まで。そこから登るのですが、おにぎり形なので、最初はちょっと急です。とはいえ、山は二次林に覆われていて、明るくって、気持ちよく登れます。途中、杉林もあるのですが、山頂近くなると、なだらかな二次林のトンネルをくぐるみたいで、とても気持ちがいいし、山頂は開けていて、遠くに富士山、近くに金時山が見えます。

 帰りは直通のバスがないので、大雄山線大雄山駅から小田原に出て、万葉の湯で疲れを癒してから帰りました。

 矢倉岳は箱根のジオパークの一部で、北米プレートとフィリピン海プレートの間にあり、かなり新しい深成岩が隆起してできたという、めずらしい山だそうです。「タモリさん、この岩石、なんだかわかります?」と言いたくなります。でもまあ、歩いていると、見かけるのは泥岩が多くて(元々海底ですからね)、石英閃緑岩が露出している場所がそんなにあるわけではないのですが。

 

 河野真太郎著「この自由な世界と私たちの帰る場所」(青土社)、小川公代著「世界文学をケアで読み解く」(朝日新聞出版)、岩川ありさ著「物語とトラウマ」(青土社)を続けて読みました。

 河野といえば、「戦う姫、働く少女」が文庫化されていて、「風の谷のナウシカ」なんかも取り上げているので、読みやすいと思うので、これもおすすめですが、新刊は「現代思想」に掲載された論文が主体で、やや硬めの本になっています。

 映画「ドライブ・マイ・カー」も取り上げられています。割と評判のいい映画なので、観た人も多いと思います。この映画における男性性というのがフォーカスされています。主人公の家福は、男性性にとらわれずに、正しく傷つくべきだった、ということでしょうか。妻の音が亡くなる、そこに対する後悔や、あるいは男性性を示す若い高槻が鏡となり、あるいは作品中で演じられる「ワーニャ伯父さん」がそれを反映している、と。

 面白いのは、同じ作品を小川公代も取り上げています。そこでは、音による家福へのケア、ドライバーであるみさきの家福へのケアが語られています。

 この作品を接点として、河野の本は、私たちはどのような世界にいて、どこに行こうとしているのか、そのことが背景としてあるし、小川の本は、ケアという視点からさまざまな作品を読み直し、現在におけるケアの意味について近づいていきます。

 その意味では、自分自身をケアするために書かれたのが、岩川の「物語とトラウマ」ということになります。けっこうな厚さがあるのだけれど、どちらかといえば作者の代表作から少しずれたところから、作品を取り上げ、人がいかに傷つけられ、あるいは傷つけ、そこから回復していくのか、が語られます。例えば、大江健三郎の「美しいアナベル・リイ」のヒロインがいかに傷つけられ、男性が加害者として背景にいかに退いていくのか。そこには、同性愛者に対する傷害も含まれます。岩川自身、性被害によるトラウマを抱えており、そこからの回復としても、この本があるということが語られます。

 そして、小川もまた「世界文学をケアで読み解く」のあとがきで、自身が受けた性被害について書いています。

 こうして読みながら思うのは、「男性的」な暴力的な世界ではなく、ケアが尊重される世界(あえて「女性性」とはいわない)に行きたいのだけれど、現実はそうではない、ということです。

 立岩真也はあえて、「ケア」という言葉から距離をとるのですが、それでも、人が人として生きていくためには、誰かのケアは必要だと思います。そして、そのケアが「エッセンシャルワーク」などという言葉で話に、あたりまえの価値ある仕事であってほしいと。そしてその底流に、ケアがある、そういう合意が必要なのかな、と思います。

 だから、見方によっては、TRPGの「エクリプス・フェイズ」によるシェアワールド小説が、お金を出せば事実上不死になる、ケアから遠い、暴力的な資本主義だけが残った世界を描く、そんな風に感じられてしまうのかもしれません。というより、ケアへの飢餓が描かれているのかもしれません。

 

 明日は釣りに行こうと思います。