こちら葛飾区水元公園前通信935

 こんばんは

 

まずは業務連絡から。

現在、書店に並んでいる「MIT Technology Review Vol.8」で、核融合スタートアップの京都フュージョニアリングの記事を書きました。おかげで、ちょっと核融合に詳しくなりました。

 

それと、これは書店に並ばないと思うのですが、「建設機械施工」の10月号に宇宙太陽光発電についての記事を書きました。おかげで、ちょっと宇宙太陽光発電に詳しくなりました。

 

まあ、内容が内容なので、あえて読んでくださいとは言いません。

 

劇団NLTの「Hotel Zoo」のチケットは土日は完売だそうで、ありがとうございます。平日はまだ残っているようなので、ぜひ。

 

ということで、トレッキングですが、8月末には、尾瀬に行ってきました。鳩待峠から入って、見晴しの山小屋で一泊し、沼山峠まで歩きました。全体としてゆるいトレッキングなのですが、小淵沢田代という、あまり人がいない湿原に足をのばしたところだけ、1時間ほど登りました。尾瀬沼ビジターセンターから登ったのですが、山道がわかりにくく、ちょっと苦労しました。人はいないですが、何もないという、まあ、そんな感じです。

 全般的に人は少なく、湿原は独り占め、くらいでした。夜中に雨は降ったけど、日中はくもりときどき晴れくらいで、なかなか恵まれていました。

 

9月に入り、ゆる山歩きということで、大岳鍾乳洞とその先にある大滝にも行ってきました。山に登っていないですね。まあでも、この日の目的は瀬音の湯でしたから。あまりトレッキングしていなかったので、リハビリくらいで。

 

そうそう、今年最初の釣りも行きました。江戸川放水路でのハゼ釣りです。小潮ということもあったのか、まあ、そんなにたくさん釣れたわけじゃなかったですが、てんぷらでおいしくいただきました。

 

ステファニー・ケルトンの「財政赤字の神話 MMT入門」(早川書房)を読みました。たまには、経済書なども読むのです。

MMTについて、想っていたことは、それほど間違っていなかったと思いました。

MMTって何だよ、って思われそうですね。現代貨幣理論の略です。よく、「財政赤字をいくら増やしても、そのことは問題がない」という理論だと思われていますね。日本なんか、1,000兆円を超える赤字で、GDPの2.5倍以上ですか。そりゃ、借金だとしたら、返せないですよね。でも、MMTでは、返さなくていい、と。

でも、そもそも、金本位制ではないのだから、お金の価値は絶対的なものではなく、相対的なものです。だいたい、お金の価値が下がるのがインフレだし、景気がいい時にはマイルドなインフレとなっている、というのは一般の経済学でも常識ですから。

不景気なときには、財政出動で景気を浮揚させ、景気がいいときには税収を増やして過熱を防ぐ、これも一般の経済学にあります。

でも、MMTの軸足はそこではないのです。お金というのは、結局のところ、豊かさを再配分するための道具だということです。物々交換を効率的にするために、お金ができた、というのは歴史ででてくる話です。そして、これを中央集権的に行うのが、税というしくみだととらえればいいでしょうか。そして、このしくみを使って、人々が豊かに暮らせるように、再配分していくことが追及されます。

そこで、お金をたくさん印刷して、国債を買い、政府は財政政策を通じて再配分し、税金を徴収することで価値の暴落を防ぐ。それがうまくまわるのであれば、財政赤字は怖くないということです。どこかで清算される必要はなく、お金がまわっていればいいということです。

「軍事費削って福祉予算」みたいな議論にまきこまれていたら、いつまでたっても豊かにはなれません。

教育の質の向上、貧困の撲滅、インフラの整備、気候変動対策、お金をつかうべきところはたくさんあるので、まずはそこにきちんとお金をつかえばいいということです。そうすれば消費ものびるのでお金がまわります。

とまあ、MMTはそういった意味で、正しいと思っています。

 

マイケル・ハートアントニオ・ネグリ著「アセンブリ」(岩波書店)も読みました。重たい本です。通勤電車の中で立って読んでいたので、腕が疲れました。

ハート&ネグリといえば、「<帝国>」が有名な、左翼思想家コンビです。アセンブリは集合とか集会とか、そんな意味。多様性を持った集合の力です。

この中で、経済について語っていることが興味深いです。資本主義批判の文脈の中で、オルタナティブな通貨について語っています。多様な人々の公平性を確保するための通貨です。それが具体的に何なのか、というのは示されていませんが。でも、それがMMTにおける通貨に近いような気がします。

 

アセンブリ」といえば、ジュディス・バトラーですが、新刊の「非暴力の力」(青土社)も読みました。

確かに、世界は暴力に満ちているし、国家がそれを合法的に独占しています。ところが、それに対抗するためのデモが、非暴力であるにもかかわらず、政府側から暴力とされてしまうことには異議を唱えています。確かに、デモや集会を「暴力」だと発言した与党国会議員とか、いましたものね。

でも、それは非暴力である、とバトラーは言います。そして、非暴力による集会が力を持っている、と。ガンジーみたいですけど。暴力を告発する以上、暴力をもって対抗することは否定されます。

そんな甘いことを、と思われるかもしれません。正直なところ、バトラーの言う非暴力の力には不安なところもあります。それに、ウクライナの問題を考えると、後で述べますが、ちょっと複雑です。

 

北村紗衣の「お嬢さんと嘘と男たちのデスロード」(文芸春秋)も読みました。シェイクスピア研究者による、それ以外の作品をネタにしたフェミニズム批評といったところでしょうか。いろいろオタクなところもあって、おもしろいです。って、それで片付けてしまいますけど、おもしろいです。

 

河野真太郎著「新しい声を聞くぼくたち」(講談社)は、ケアと男性性をめぐる評論ですが、ちょっとだけ「お嬢さんと・・・」と取り上げる作品もかぶっていて。ただ、こちらはテーマが決まっていて、おもしろいのとはちょっとちがっているかな。ポストフェミニズムという文脈では、「男女平等になったのだから、女性は自由にしていいよね」という中で、男性も家事とかするよね、というのは、アッパーミドルクラスでの話。しばしば、ケアがより安い労働力を使って外部に委託されていく。その労働者はポストフェミニズムから疎外されている。だとしたら、ケアについてもう少し考えなきゃいけないんじゃないか。とまあ、そんな問題意識。

 

河野がよってたつフェミニストが、アンジェラ・マクロビー。そのマクロビーの「フェミニズムレジリエンスの政治」(青土社)が河野と田中東子の訳で出たので、読んでいます。

 

最近、読んでいる本といえば、そんなところでしょうか。

 

そろそろ磯釣りも行きたいし、ちょっと長めのトレッキングもしたいところです。

ではまた。