こんにちは。
プロ野球が他のスポーツイベントのおかげでお休みしていて、ちょっとさびしいですね。
このイベントに参加する野球選手においては、何よりもケガしないでほしいと思います。
業務連絡から。
今月末あたりから、「トーキングヘッズ叢書、No.87、ハダカモード、はだける素になる文化論」が書店に並びます。今回もぜひともお買い求めください。
週刊エコノミストには記事を書きました。7月5日に発売された7月12日号、脱炭素特集で、原子力のだめさかげんについて書きました。大きな書店にはバックナンバーがあるので、立ち読みでもしてもらえるとうれしいです。
KADOKAWA/ASCIIから出ている「MIT Technology Review No.4」にも記事を書きました。グリーン水素について書いています。こちらも、大きな書店にはあると思うので、立ち読みしてやってください。
とまあ、そんな感じでぼちぼちやっています。
6月のトレッキングですが、梅雨空の中、埼玉県飯能市の天覧山~多峯主山に行ってきました。天気も良くないので、低山を歩くというコンセプトですが、実はメインはここからメッツァ周回コースに出て、宮沢湖温泉喜楽里別邸に行くことでした。まだ新しい感じがして、なかなか快適なスーパー銭湯でした。露天風呂からちらっと宮沢湖が見えます。
7月のトレッキングは、暑いので再び低山を歩くということで、同じ飯能市の龍崖山に行きました。森林の中は多少は涼しいとはいえ、気温が高いので、ちょっと身体が重かったです。帰りは河原を歩くつもりだったのですが、スズメバチがいて、吾妻峡の河原にあまり降りられなかったです。飯能河原は少し歩いたけど。
まあ、このあたりはフェイスブックかブログでくわしく。
釣りも行きました。息子と小田原市の根府川に行ったのですが。大きなベラとか。磯だと根がかりが多いので、漁港に移動。息子は小さなサバを釣っていました。サバは唐揚げでおいしくいただきました。大きなベラは塩焼きです。
とりあえず、コロナワクチンの1回目の接種は終わりました。来月2回目をやります。今のところ、大きな副作用はないですね。
ぼくとしては、いちおう機会があれば接種したほうがいいと考えています。でもまあ、強制するものでもないかな、と。どういうことかというと、7割が接種すれば社会的な免疫ができるし、とりあえず8割くらいまではワクチンを用意するので、それはまあいい数字かな、と思います。
最近、本の話をしていないですね。
SFということでは、まず、J・G・バラードの「旱魃世界」(東京創元社)ですね。「燃える世界」の改訂版ということになるそうです。「燃える世界」を読んでいないのだけど。雨が降らなくなった世界で、水を求めて争う、ある種のユートピアというのでしょうか。ディストピアではないのは、破滅する世界で自分が自分らしく狂気を持って生きているから、ということだと思います。この狂気、どうしてもコロナ状況下でオリンピックをやりたい人々の狂気と重なります。
アマル・エル=モフタール、マックス・グラッドストーン著「こうしてあなたたちは時間戦争に負ける」(早川書房)は、説明しにくいですね。遠い未来を起点に、そこで都合の悪い過去の改変をめぐって時間戦争をしている、という設定。フリッツ・ライバーの「ビッグタイム」みたいですね。でも、戦争をしているブルーとレッドの、敵同士の、たぶん女性どうしの手紙のやりとり、という形で記述されています。という形では、ラブストーリーでもあるのですが。そもそも、ブルーもレッドも人間なのかどうか、あやしいし、分岐するそれぞれの世界では、なかなか凄惨な殺し合いもさせているし、でもそんなものはさておいて、世界はどうあるべきか、二人のためにある世界なのでしょうか、という。時間戦争を戦っているにもかかわらず、その時間を含めた世界の中に飲みこまれてしまう、どうしようもなさ、でしょうか。
トリッキーで面白いです。
おすすめということでいうと、フェミニズム関連の本をいくつか紹介しておきます。
レジャーヌ・セナック著「条件なき平等」(勁草書房)は、タイトルにフェミが入っていないけれど、フェミ系です。
この社会は、「平等」であるべきだという一方で、そのための前提が平等ではなかったりします。男女平等といいつつ、では女性も男性なみに働いてください、とか。平等といいつつ、生まれた環境も持って生まれた才能も違うのにね。そんな条件はもうとっぱらって、とにかく平等であるべきだと。これはレイシズムについても同様。というか、そっちのほうがわかりやすいかも。生まれたところが違う、だから何? 文化が違う、だから何?
ナンシー・フレイザー、シンジア・アルッザ、ティティ・バタチャーリャ共著「99%のためのフェミニズム」(人文書院)もこれに近い。99%っていうことは、1%は排除されてしまう。それが何かといえば、ヒラリー・クリントンやシェリル・サンドバーグに代表される、新自由主義フェミニストだっていえばいいかな。そもそも、それだめじゃん、というような新自由主義にのっかって競争してガラスの天井をやぶろうとする。それ、前提がまちがっていないかな、と。日本でいえば、小池百合子とかね。残念だけど、蓮舫にも少しそういうところがあって、そこは変わってほしいところではありますが。
シンシア・エンロー著「<家父長制>は無敵じゃない」(岩波書店)は、タイトルまんまですね。エンローは軍事とフェミニズムについて研究してきた人。この社会がどれほど家父長制に支配されていようと、そもそもそれってゆがんだものなんだから、どこかで破たんするよね、と。だから、そのためにも、押し倒さなきゃ。
家父長制とかいったって、男だけじゃ社会は成り立たないし。
ということで、この3冊、いずれも薄い本なので、すぐ読めます。社会学的なフェミニズムって、いわゆる第二波フェミニズム以降も、うまく社会を変えることができていないし、そのあとバックラッシュやらポストフェミニズムミニズムや新自由主義フェミニズムのおかげで、社会は問題を抱えたままではあるのだけれども、いわゆるバックラッシュを乗り越えた先での、マニフェストとしての本というのが、この3冊に共通するところ。
それと、セクシュアリティの問題に足を取られることなく、むしろヒューマニティの問題として問いかけているという点も共通している。これ、けっこう重要。
私たちは基本的に、同じである、ということ。そこにセクシュアリティを持ち込むと、同じ規範を強制することにもなりかねない。人としての権利が同じであるということ。
一方、ジュディス・バトラーの「問題=物質となる身体」(以文社)は厚くてわかりにくい、哲学的フェミニズムの方に入る本。バトラーについては、読んでもなかなか理解が追いつかないのだけれども、それでもなぜかひかれます。
同じであるという規範を持ち込もうとしても、私たちはみんな内在させているセクシュアリティが異なるし、それは尊重されるべきこと。私たちの本質のある部分は身体であるということ。そういう風に、前述の3冊と切り分けることができると思います。
とまあ、今日はこんなところで。