こちら葛飾区水元公園前通信921

 こんにちは。

 

 まず、業務連絡。

 日本経済新聞の8月17日付け朝刊で、私見卓見のところで文章を掲載していただきました。

 図書館ででも探して読んでいただけたらと思います。

 

 それから、「電力・ガス業界の動向とカラクリがよーくわかる本(第6版)」が9月23日に刊行されます。最初のバージョンが2008年の刊行だったので、10年以上たつわけですね。今回もページ増価格据え置きの予定です。

 まあ、専門的な本なので、買ってくださいとはいいにくいのですが。

 

 夏はあまりトレッキングにはむかないのですが、それはそれとして、尾瀬に行きました。

 昨年は、沼山峠側が閉まっていたので、鳩待峠側から尾瀬ヶ原を歩いていたのですが、今年は沼山峠側からです。

 桧枝岐村で一泊して、沼山峠から尾瀬沼を一周してくる、という感じで歩いてきました。

 沼山峠側から入るのは初めて(出たことは何回もある)でしたが、上りもわずかだし、人も少なくて歩きやすいですね。鳩待峠側の方が、道は多少変化もあっていいかな、とも思いましたが。

 8月の尾瀬は、小さな花がいろいろ咲いていて、楽しめました。写真はフェイスブックにアップしていますが。ミズバショウニッコウキスゲもありませんが、ささやかに咲いているのは、なかなか心が和みます。

 尾瀬沼を時計回りで一周しましたが、南側はこれまで歩くことが多かったのですが、北側はたぶんはじめて。歩きやすいですね。でもまあ、開けた湿原は気持ちがいいものです。

 今回は、前日に桧枝岐村に入ったのですが、村の散策も楽しかったです。トレッキングとはまたちがう楽しみですね。

 桧枝岐村は会津駒ケ岳の登山口です。ということで、来年の目標は会津駒ケ岳登頂ということに決めました。

 

 釣りはぜんぜんしていないけど、来月にはハゼ釣りに行きたいなあと思っています。

 

 最近の本についても。

 前回のフェミつながりからいくと、ケアコレクティブ編著「ケア宣言 相互依存の政治へ」(大月書店)は、広く読んでもらいたい本だと思いました。

 なんだかもう、今の与党は自助で済むと思っていて、その結果のひとつがコロナ対応だと思っています。べつに、陽性者や患者だけのケアということではなく、飲食店へのケアもそうですし、社会全体としてケアが不足しているということです。

 相互依存したほうが、社会は生きやすいということなのですが。

 たまたま、パラリンピックをやっていますが、障害者スポーツもそうしたところで成り立っているのではないかな、とも思います。

 ぼくのいる業界にも関係していて、気候変動問題についても、何度も言及されています。この問題についても、同じ文脈で語られます。

 ケアと民主主義というのは、実は無視できない関係があるということです。

 ぼくの解釈では、民主主義といいつつ、ケアを欠落させ、そこに新自由主義というものを持ち込んだ結果、民主主義のようでいて、そうではないギスギスした社会ができてしまう、自己責任論が跋扈する社会になってしまっているのだと思います。

 訳者の一人でもある岡野八代が、フェミニズム政治学についての研究をしていく上で、ケアを取り上げていくのが、ようやくわかってきたかな、といったところです。

 ところで、最近の日本経済新聞では、中国や韓国などの少子高齢化が取り上げられています。女性の活躍が少子化につながるけれども、だからといって女性が活躍しない社会に後戻りさせるわけにはいかない、ということなのですが。あるいは、子育てのコストがかかるということもあるでしょうし、若い世代の収入が十分ではないということもあるのでしょう。

 ここでは、日本経済新聞には、ケアの視点が欠落していると思います。

 

 落合恵子の「偶然の家族」(東京新聞)も読みました。30年前の作品を復刊したということですが。アパートに住む、血縁関係のない人たちが家族として暮らしているという姿が描かれています。血のつながりをたよりにしただけでは、家族は心のつながりを持てるわけではない、ということです。まあ、互いにケアする関係でもあると思うので、それができなければ家族ではないなあと思います。それと、家族はつねに変化しているもので、この人たちがずっと一緒に暮らすわけでもないですし、それはどの家族も同じことだと思います。

 でも、こうした家族観が、どれだけ社会に浸透しているのか、と思うと、だめだよなあと思います。聞いた話ですが、最近でもなお、妊娠がわかってから入籍するというようなことがあるとか。

 血のつながらない家族という話では、金田一蓮十郎はわりとずっとそういう話を描いてきたけれども、マンガとかアニメではもう珍しくなくって、最近では「スライム倒して300年、知らないうちにレベルMAXになってました」もそういう話でした。

 現実がなお、そうなっていないということですね。

 

 30年間の変化のなさ、ということでいうと、片岡義男の「日本語の外へ」(角川文庫)を思うところあって読みました。90年代、ブッシュからクリントンに移行する時代に書かれた本ですが。そこには、アメリカと日本の変わらなさを感じることができます。まあ、トランプはブッシュよりひどかったし、バイデンがクリントンよりましなのは、サンダースの影響もあるからだよなあ、とは思いますが。

 

 60年間の成長のなさ、ということでいうと、真壁仁編著「詩の中にめざめる日本」(岩波新書)も読みました。真壁がさまざまな、有名無名の人による詩を集め、その解説をしているのですが、ここでは詩そのものが社会に対する闘争ともなっています。農民であり、炭坑労働者であり教師であり学生であり、あるいはさまざまな現場の人が、その声を詩にしています。でも、こうして読むと、その闘争はまだ終わっているとはとうてい言えないということを感じます。ある意味では、それはすっかり、SNSにおける軽い書きこみになってしまったのかもしれません。それでも、闘争があったことは、記憶されるべきだと思います。

 ということでは、最近の日本経済新聞梯久美子の連載は、意味があるなあと思います。「詩の中にめざめる日本」にも収録されている、茨木のり子石垣りんもとりあげています。

 現在は、田辺聖子を取り上げていますが、戦中における女学生としての田辺については、いろいろ発見があるということです。

 

 とまあそんなこんなで、もうすぐ夏が終わります。

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