こちら葛飾区水元公園前通信883

tenshinokuma2018-09-29

 こんばんは

 今回も告知から。月刊BOSSの11月号にも、コラムが掲載されています。連載の6回目で、最終回です。今回は、地域新電力について書きました。ご関心のあるかたはぜひ。

  とまあ、そんなわけで、9月ももうすぐ終わります。なんだか、1年の4分の3が終わっちゃいますね。たいしたことしていないなあ。

 今月は、15日―16日と尾瀬に行ってきました。友人のSさんのお誘いで。テーマは、至仏山に登るというものでした。ここは、登ってみたかった山なので。
 でも、雨にたたられて、結局、登山はせず、尾瀬ヶ原を散策してきました。東電小屋の方に行ったのは、初めてだったかな。
 オフシーズンなので、人は少ないのですが、ヒツジグサの紅葉がきれいでしたし、地味ながらも多少は花も咲いていたし。
 って、書いても伝わらないですよね。フェイスブックに写真をアップしてありますので、興味のある方は、ごらんになってください。

 あと、24日には、久しぶりに江戸川放水路にハゼ釣りに行ってきました。ここは自転車で行けるので楽でいいですね。
 10時から13時までの3時間でハゼ50匹、ボラ1匹、ホンビノスガイ1匹でした。
 ハゼは小さいのですが、食べるとその方がおいしいです。翌日、てんぷらになりました。
 もう1回くらい、ハゼ釣りに行ってもいいかな。

 昔は、ツイッターは平和な世界でした。「おはよう」とか、そんな書きこみで良かったし、ランチや猫の写真をアップしていれば良かったかなって。
 でも、社会の困難な問題に直面して、さまざまな考えがタイムラインに並ぶ。ぼくも、たぶん、郵政民営化解散のときから、そんな反応をしていました。
 今では、すっかりささくれだった世界になっていて、でも、実際に現実がそういうことになっているのだと思います。

 最近は、表現の自由について、考えています。
 ラノベの表紙問題が、きっかけです。これは、エロいラノベの表紙が並んだ書店の平台を女子小学生が「おとうさん気持ち悪い」と言ったということがツイートされたところからはじまりました。
 まあ、もともと、反ポルノ的な一部のフェミニストと、ポルノの暴力を理解しない一部のオタクのツイッター上でのののしりあいが、ずっとあったわけですが。それは、いずれも、フェミニストやオタクを代表するものだとは思わないのですが、声が大きい人ばかりが目立つ、というのはどこでも同じですね。

 この問題のやっかいな点は、ラノベの表紙はポルノではないということにあります。
 ポルノグラフィについては、コンビニのエロ本問題も含め、ゾーニングは必要だとは思いますが、その上で、表現の自由は守られるべきだと思っています。それが、架空の児童を対象にしたものや、残虐なものであったとしても、女性の尊厳をふみにじるようなものであったとしても、それがゾーニングされた中にある分には問題ないと思うのです。それは、ゾーニングされた外にいる人間には影響を与えないものだと思うし、ゾーニングの意味は、そうした欲望が「適切に管理される」ということをだからです。そして、そうした欲望を「ないこと」にはできないし、だからこそ、その欲望にせまっていく「アート」があるのだと思っています。

 しかし、ラノベの表紙、あるいは一般的な青年コミックの表紙は、ポルノではありません。作者や版元は、ポルノではない範疇で表現しようとしています。
 エロいといっても、それがすべてポルノというわけではありません。ぼくたちは、ある種の美の基準としてエロスを感じるものを持っているし、そうした感性は消し去れるものでもありません。また、感じ方は人によって異なるし、特定の感じ方だけを否定するということも不可能でしょう。
 問題は、ある種のエロい表紙だけが並べられた場合に、それをどう感じるか、ということになります。結論は、これはもう書店の判断でしかないかな、ということになります。

 確かに、女性はモノとして消費される図像が多量に流通する社会に対して、気持ち悪いと感じる人は少なくないとは思います。
 けれども、結局のところ、女性の図像に限らず、さまざまなものが消費されることで、経済が動いているということもいえます。そして、そのある部分に対して批判することは必要だと思います。しかし、あるものをないことにはできない、ということもいえます。本当になくすべきなのは、図像ではないと思うのです。

 というのは、図像は「結果」であり、「原因」ではないと思うのです。人が内面にどんな欲望を持とうが、それが適切にコントロールされている限りは、問題にしようがないと思いますし、図像はその結果だと思うのです。
 むしろ、女性をモノとして消費しようという社会を支えているのは、ポルノやエロいラノベの表紙とは無縁のところにいる人たちです。LGBTに対して「生産性がない」といい、「子どもは3人産むべきだ」と言う、「女性が輝く社会」と言いながら、その女性を非正規雇用の中で安価な労働者として活用させている、そういう人たちです。もっと具体的に言えば、「日本会議に所属する政治家」とでもいいでしょうか。
 こうした人たちの思想が一部で支持されていることが、「原因」だと思います。
 しかし、この原因はポルノやエロいものを規制することでは取り除けません。むしろ、積極的に規制しようとするかもしれません。女性からエロいものを取り上げるのではないでしょうか。
 その先にあるのは、エロい感性を規制しようとする、「下半身を管理する」社会なのだと思います。

 表現の自由は、責任が伴うものです。同時に、それは常に誰かを傷つける可能性を持っています。だからといって、過剰に規制することで、「あるものをなかったことにすること」はできないと思うのです。
 ヘイトの問題は、そのことに無自覚だということです。だから、暴力となってしまうのです。明らかに正しくないことを主張し、マイノリティを貶める、ということが、暴力なのです。だから、表現の自由から、逸脱する部分があります。
 もちろん、これもまた、ポルノの一種としてゾーニングされ、流通するという可能性はなくはないでしょう。「ヘイトは正しくはないけれど、感情としてはこうなんだよな」と思うことまでは、禁止することはできないからです。
 ポルノにおいても「現実の世界での暴力はダメだよな」という了解が前提となっていることと同様です。
 しかし、実際のヘイトはそうではありません。

 ということで、「新潮45」の休刊なのですが、その原因となった論文はいずれも読んでいないので、その点については、言うべきことはありません。
 ぼくから言うべきことは、表現の自由は無料ではない、ということです。
 部数減が深刻だった「新潮45」は、ネトウヨ誌になることで延命しようとしていた、ということです。実際に、「正論」「Will」「Hanada」「Wegde」などネトウヨ誌の方が、「世界」や「週刊金曜日」のようなリベラルな雑誌よりも市場が大きいようです。広告もつきやすいのでしょう。
 そこで考えてしまうのは、リベラルな雑誌をリベラルな人がどれほど買い支えているのかということなのです。まあ、そもそも愛国ポルノを読んで気持ちよくなれる雑誌と、読んだ後に社会的な怒りを感じずにはいられない雑誌と、どちらが「気持ちいいか」というのはあるのですが。

 「新潮45」は休刊になったわけですが、そもそもこの雑誌を不買運動しようにも、みんな読んでいないわけで、だからといって新潮社の本の不買運動も不毛かとは思いますし、たぶん、「新潮45」の広告主への不買運動の方がいいのではないか、とは思ったものでしたが。そういうことよりも、新潮社が看板を守るためにあっさり休刊したということですね。
 それにしても、表現の自由といいつつ、「売れる思想」だけが市場に流通する、という状況は、簡単に表現の自由を失わせるものになると思います。

 こうした文脈の中では、フジサンケイグループの扶桑社が枝野幸男の国会での演説を書籍化したというのは、象徴的なことだと思います。売れる本なら扶桑社でもリベラルな本を出す、ということですね。

 その枝野幸男の「魂の3時間大演説」は、ぜひ読むことをおすすめします。現在の政府が抱えている問題が、きちんと整理されており、いかに安倍政権がダメダメで人々の利益に反するお友達政治をやっているのかが、よくわかります。

 ヘイト関連ということにもなるのですが、岡和田晃著「反ヘイト・反新自由主義の批評精神」(寿郎社)も読みました。
 言うまでもなく、新自由主義も多くの人を苦しめていると思います。非対称な関係であるにもかかわらず、そこに自由をあてはめ、平等を装う、ということです。
 例えば、高度プロフェッショナル法が問題なのは、自由な働き方といいつつ、労働者と雇用する企業の力関係の不均衡をおり込んでいないということです。
 おそらく、こうした不平感がより弱い立場への攻撃になる、というのが、ヘイト、ということになるのだと思います。
 そうした位置づけにおいて、大江健三郎笙野頼子青木淳吾、さらには北海道に関連する作品を読みこんでいく、という本です。
 うなずくところもあるし、そうではないところもあるのですが。問題ある現実の中で作品が書かれているので、そうしたことに対応する批評ということで、おおむね同意します。
 岡和田が特にこだわるのは、北海道であり、アイヌ差別です。それは、もっと一般的には、貧困が押し付けられている植民地に対する差別といってもいいと思います。沖縄がまさにそうです。
 そして、ぼくの仕事という点では、青森(北海道のすぐ南)が、そうした状況にあるし、そうした指摘もなされています。
 これは以前も書いたことですが、同じ原発立地県でも、青森と新潟は異なります。新潟は豊かなので、原発がなくてもいいのです。でも、青森は、今原子力関連施設を一方的になくすということは、青森が捨てられることを意味します。六ケ所村再処理工場など、中止すべきものがたくさんあるにもかかわらず、原子力関連施設のない青森県の姿をだれも描けない、そこには貧困しか残らない、という問題があるのです。そして、そのことがクリアにならない限り、核燃料サイクルの問題は解決しないと思うのですが。にもかかわらず、反原発運動の人たちこそが、その問題を直視していないと思います。
 それにしても、世界はとても居心地が悪いです。

 その他、今月読んだ本ですね。
   著「ホモ・デウス」(河出書房新社)は、アマゾンからいただいたので読んだのですが。書店では平積みになっていますね。で、著者の幅広い知識には関心します。でも、だからどうなのかな、と思います。
 急速なテクノロジーの発達で、人は違う存在になっていくのかもしれませんが、その姿は単純すぎます。

 マーカス・デュ・ソートイの「数字の国のミステリー」(新潮社)は、なかなか読ませる数学テーマの読み物でした。
 前二作「素数の音楽」と「シンメトリーの地図帳」は、新潮社のクレストブックスという外国文学のシリーズから出版されたのに対し、こちらは科学テーマのハードカバー。今は三冊とも文庫になっていますが。それは何が違うかというと、前二冊がリーマン予想群論の分類に関する証明をテーマとした、あちこちに寄り道する知的ロードノベルのような作品だったことに対し、「数字の国のミステリー」はミレニアム問題5つをテーマとした読み物というスタイルになっていることです。
 したがって、読み物としては面白いのですが、読書という旅、にはならないですね。まあでも、面白いことは面白いし、読みやすいと思います。

 イサク・ディネーセンの「バベットの晩餐会」(筑摩書房)も読みました。というか、今月は、友人が出演する「変奏・バベットの晩餐会」を観劇したので、それをきっかけに、読んでみたというところです。
 映画を見た人も多いと思うので、多少話してしまいます。舞台はノルウェーの辺鄙な町。ルター派プロテスタントの教会に住む姉妹のところに、家政婦としてバベットがやってきます。バベットはフランス革命を逃れて、ここにたどりついたのですが、実は有名なレストランのシェフでした。バベットは禁欲的な暮らしをする人々の中で、有能な家政婦として働くのですが、ある日、宝くじが当たります。そのお金を使って、晩餐会を開催します。
 結婚しないまま中年を迎えた姉妹のささやかなロマンスが伏線というかスパイスとなって物語が構成されます。そして、バベットは自身を芸術家だとして、その作品として晩餐会の料理をつくります。
 料理は食べてしまえば終わりなのですが、人々の中に、人生の一瞬の輝きとして残ります。その姿が、何かを感じさせます。
 同時収録の「エーレンガート」も、なかなかトリッキーなお話でした。ラスト、そうだったのか、と。

 金田一蓮十郎の「ラララ」(スクエア・エニックス)の7巻が出ました。これが、驚愕するほど抑制された展開で、びっくりします。血のつながらない家族の物語としての展開と、あまりにあっさりした初夜、すごいです。

 とまあ、今夜はこのへんで。