こちら葛飾区水元公園前通信867

tenshinokuma2017-12-21

 こんばんは。

 年末ですが、いかがおすごしでしょうか。気付くと12月にいきなり出張が3回。何が何だか。と、思っていたら、1つは来月に延期になりましたが。

 ところで、日経サイエンスの12月号と1月号にまたがった、特集「性とジェンダーの科学」というのは、とても腑におちるものでした。
 例えば、男女の脳に性差はあるか。結論を言うと、平均値としては差はあるけれど、個別で見れば意味がない、というものでした。脳はきっちりと男女にわけられるものではなく、男性的な部分と女性的な部分のグラディエーションの中にあるということです。
 これに限らず、「男だからこうだ、女だからこうだ」というのは、あてはまるものではないし、ある部分については、そのように社会的に教育された結果であって、本質的なものではない、と。
 ただし、健康に関しては、はっきり性差があって、薬の処方なんかも変えないと、と。ラットの実験でも、オスばっかり使っているし、女性の臨床試験もなかなかできないので、そこははっきりしなかったけど、とも。
 ぼくにしてみれば、あたりまえの結論ではあるのだけれども、米国であっても、偏見は根強く、こうした論拠をあらためて示さなければいけない、ということそのものに、根が深いものを感じます。
 もちろん、日本においても同様で、どれほど性別に対する偏見が強いかは、いくらでも例証できるものだと思います。

 宇野常寛の「母性のディストピア」(集英社)を読みました。正直なところ、無駄に厚い本だと思いました。でも、それは著者の、宮崎駿富野由悠季押井守庵野秀明に対する熱い想いがあるからなのかな。それは、いくら書いてもさまらないようなもの、なんだろうな。
 宇野の「リトル・ピープルの時代」を読んで、その通りだって思ったのは、村上春樹と比較すべきは他の純文学作品ではないということ。消費のされかたが違うのだから、その通りだな、と。「仮面ライダー」でもラノベでもまんがでも、まだそっちの方が近いよな。
 だから、ジブリのアニメも押井の現代社会に対する視線も、それは時代の背景には重なっているとは思う。けれども、それですべて説明できるとも思わないのに、それで時代を語ってしまうところに、宇野の限界があるのではないかな。
 その上で、母性というキーワードは、先のジェンダーの問題にかかわってくる。というのも、この国の文化においては、女性というジェンダーに対して、母親、愛人、娘などの役割を、ときに合わせて、あるいは個別に押し付けているのではないかと思っているからだと思います。男性は女性を支配したい一方で、女性に守られたいという、矛盾した感情を持つ、ことがしばしばある。そして、ガンダムを見たことがないので、富野はわからないけれど、他の3人については、等身大の女性をとらえきれない、その限界とずれの中に、その作品があるとすれば、そういった側面は確かにあると思うのです。

 ただし、それは一面でしかないかな、とも思っています。
 そもそも、宇野は母性が何なのかを、はっきり定義していないっていうのはあるんだけれども。まあそれはさておき。
 宇野は、ずれに無自覚な、代表的な存在を、ネトウヨだとしています。母性を尊重しつつ、女性を貶めている、という人たちですね。そして、それが、オタクがそこに回収されてしまった、とも。
 でも、そこはオタクではないと思います。あえて言えばキモオタですか。読んでいないけれど、オタクとフェミニズムが相容れないようなことも言われていて、心外です。
 オタクでかつフェミニストとか、女性のオタクはどうするんだ、と話はずれてしまいますが。

 宮崎の描くヒロインというのを並べていくと、たしかに母性の不可能性みたいなところはあって、宮崎はけっこう自覚的なんじゃないか、と。
 押井にとっては、「ビューティフルドリーマー」のラムというヒロイン像。これがやがて「攻殻機動隊」の草薙素子になるとします。「ビューティフルドリーマー」はすべてがラムの夢だったという話。こうして世界を包んでしまうというのが母性だとしたら、ネットワークの中に存在するようになる素子もまた、同じなのかもしれない、ということになります。
 ぼくの押井に対する見方は少し違っていて、閉じられた世界から外に出ていこうとする、何だか80年代演劇みたいなものが、この世代にあるんじゃないかって思っています。だから、殻を割る「天使のたまご」は進歩だと思ったし、「紅い眼鏡」は後退だと思いました。けれども、その世界で安住し、そこで生きていく、というのがその後の押井なのではないな。
 でもまあ、その世界を守る存在が母親であると定義されてしまえば、まあ、そうなんだろうな。でも、そうすると、母性そのものがジェンダーから切り離されるのかもしれません
 その上で、押井の社会批評は未来社会に対するビジョンは多少評価してもいいと思うのです。だとしたら、未来は閉塞した世界、なのかな。でも、それが母性という言葉だけで回収するには無理があると思うのだけれども。
 庵野の「新世紀エヴァンゲリオン」は、少年が母親的な綾波レイから離れ、他者である少女、アスカ・ラングレーを選ぶ、そういう話だと思っています。思春期のダダ漏れです。そして、庵野がその先に進めたとは思えません。「シン・ゴジラ」がどうなのかわからないけど。

 ぼくは、母性と女性は何も結びつかないと思っているし、女性だから母性があるとは思わないし、母性を持つのが女性だけだとも思わない。ただ、自分を保護してくれる都合のいい性質を母性とよんでいるだけだし、それを一方的に女性というジェンダーの中に押し付けてきたのが今の日本の文化だと思っているんです。
 だから、母性を女性というジェンダーの性質だと都合よく思っている、母性大好きキモオタがネトウヨになっている、というのであれば理解できます。
 もっとも、この国のマジョリティが、母性を女性というジェンダーに属するものだと思っている限りは、この国がディストピアになる一方だとは思います。

 重い話題ばかりで申し訳ないのですが、萱野稔人の「死刑 その哲学的考察」(筑摩書房)を読みました。ぼく自身は、死刑は廃止すべきだと思っています。でも、それはそれとして、だから関心があるのですが。
 萱野の論点は3つです。死刑は刑罰として合理性があるのか。一般的な哲学として死刑でまかなわれるものはあるのか。そして政治哲学として。
 死刑は、一方で重大な犯罪を犯した人に対して、死刑を適用しないと気が収まらない、というのは、合理性があるといいます。しかし、死にたくて犯罪を犯した場合、例えば池田小事件などに対しては、死刑は無力だといいます。では、救いがないまま生きていく終身刑はどうか。その方が残酷な場合もあれば、そうではない場合もあり、かといってケースバイケースで適用することもできないといいます。
 一方、人を殺したから、死んでつぐなう、というのは、考え方としてあるといいます。しかし、かけがえのない命を奪ったからこそ、死刑にするというのは、そこでまたかけがえのない命を奪うことになります。
 人の命を奪うということは、国家が独占する暴力です。しかし、暴力を独占するような権力を持たせることで、ガバナンスがはたらく、ということも事実です。
 でも、この本でもっとも興味深いのは、冤罪に対する考察です。冤罪があるから、死刑は廃止すべきだ、という考えに対し、冤罪がなければ死刑でもいい、という反論が成り立ちます。
 しかし、警察・検察がまじめに捜査・立件しようとするほど、結果を求めてしまい、冤罪の可能性が出てきます。もちろん、行き過ぎた取り調べに対しては、批判していますし、結果として冤罪が起きています。では、確実に冤罪ではない件だけ死刑を適用すればいいのか。極端に言うと、現行犯以外は死刑にしない。でも、それは現実的ではありません。
 萱野は、はっきりは書いていませんが、死刑は廃止すべきだと考えているようです。

 この本は、論点がうまく切り分けられていて、悪くないと思いました。
それでも、物足りないのは、たとえ極悪な犯罪者だからといって、命まで奪われるというのは、人の本質的な権利を守るという点でどうなのか、ということに踏み込んでいないことでした。なぜ、死刑が人権問題なのか、ということです。

 ぼくがなぜ死刑を廃止すべきだと考えているのかも、簡単に書いておきます。
 まず、起きてしまった犯罪について、もっとも優先されるべきことは、遺族などのケアだと思っています。心のケアと経済的支援です。最近のACのコマーシャルでは、これが十分に手当てされていないことが伝えられています。
 次に、事件の再発を防ぐことです。そのために、加害者が生きて情報なり経験なりを伝えていくことは、必要だと思います。例えば、オウム真理教事件でも、判決は出たとしても、事件がどういったものだったのかは、何もわかっていません。加害者には、そうした責任を負う権利があると思っています。これは死刑に反対する理由の1つです。
 遺族の感情を死刑の理由にするとしたら、死刑囚の家族の感情はどうなるのか。加害者にとっては、かけがえのない肉親を失うことになります。それは、何の罪もない加害者の権利としてどうなのか。しかし、これは加害者の遺族にとどまらないと思います。永山則夫の場合、「華」という小説を書き続けていました。それは、死刑によって、永遠に未完となっていました。それは、やはり国家によって奪われてしまった、知的財産だと思います。
 そして、直接的な殺人だけが罪が重いというアンバランスさも、気になっています。間接的な大量殺人ともいえる、水俣病イタイイタイ病などのかつての公害病福島第一原発事故エイズを引き起こした非加熱製剤、こうした問題で、当事者が責任を問われる場合もあるし、そうでない場合もあります。しかし、結果の重大さから考えれば、極刑というのを求めたい気持ちもあります。しかし、そうはなりません。誰も死刑になっていません。少なくとも、別の罪の償いかたがあるということでしょう。

 今月、2人の死刑が執行されました。やはり、彼らの人生というのが、どんな意味を持っていたのか、考えてしまうのです。生きて償うことができれば、もう少し意味のある人生が残っていたのかもしれません。それはやはり、奪われてはならないものだと思うのです。