こちら葛飾区水元公園前通信650

 この間、娘が「魔女っているけれど、男の魔法使いの場合、何て言うの?」ってきかれた。うん、その説明だったら、いくらでもできるぞ。ジェンダーの話だよな。とは思ったものの、けっこうめんどくさいので、その場は説明しなかった。いかんですね。
 狭い意味で「人間」っていうのは、男性だけだというのが、昔から続いているっていう残酷な歴史と現実を話すのは難しい。

 そんなわけで、アーシュラ・K・ル=グインの「ファンタジーと言葉」(岩波書店)を読んだ。最初のエッセイ「自己紹介」で、ル=グインは自分は男であるって話す。もちろん、自分は人間である、と話すことが、自分は男である、と話すことと同じだからなんだけれど。その距離感っていうのかな、「闇の左手」に対する批判として、ゲセン人はみんな男性であるように描かれているというのがあったことを思い出す。ケメルのときにだけ、片方が女性になる、といったイメージで、そのことはぼくはすごく違和感を感じていた。それはある意味、ジョアンナ・ラスの「フィーメールマン」と対極にあるようなものだから。でも、ラディカル・フェミニズムの影響の下で、60年代末に「闇の左手」を書いたというのは、今回のエッセイを読んでいて、それなりに納得するものだった。ル=グインが男性であるように、ゲセン人はやはりみんな男性だというのが正しい、ということなのだろう。
 自分の中の違和感はすごくわかる。ヘテロセキュシュアリティのぼくに対し、男性のジェンダーを持った女性をどう感じるのか、ということがつきつけられているのだから。ジェンダーであるはずのものに、セックスが反応してしまう、ということなのだろう。
 この他にも、ル=グインが子供の頃から、いかに大量の本を読んできたかが語られる。マーク・トウェインの「イブの日記」がいかに優れた作品かも語られるけれども、これは本当に、ぼくも好きな作品です。トウェインとフェミニズム?って思うかもしれないけれども、素直な目で見れば、そうだよなあって思うことのはずなんです。
 あとは、老いについてもささやかに語られる。宗教についても。アメリカのマジョリティがいかに間違っているのかが語られる。そういう本なのである。
 ということで、ジブリがアニメ化する「ゲド戦記」はどういうものになるのだろうか、などと思ってしまうわけなんだけれども。だって、「ゲド戦記」においては、ゲドのもっともはなばなしい活躍のエピソードは語られていないし、そういうつくりがなされているのだから。

 J・G・バラードの「楽園への疾走」(東京創元社)も読んだ。バラードにとって、「夢幻会社」ってターニングポイントだったのかなあって、あらためて思う。話の構造は、「結晶世界」と基本的に変わらないのだけれど、舞台はそんな大仰なSF的なものではなくても、核実験が予定される南の島で十分という。それは現実が、それが引き起こす妄想が、銀河の衝突のような仕掛けを必要としなくなっている、というところなんだろうな。
 話はアホウドリを救え、と主張する環境活動を行う女性科学者についていく少年が主人公、南の島で、アホウドリはどうでもよくなって、科学者は女性だけの楽園を作り出そうとする、という変な方向に進んでいく。この作品の前に、バラードは「女たちのやさしさ」っていう作品を書いていて、そこでは半自伝的に、バラードの体験がタイトルのまんまに語られている。その女性の楽園というものが、つくられるのかどうかっていう。その中で、男性は幸福だったり不幸だったり。そんな中で、やさしさを受ける男性は結局は生き残らない存在なのかもしれない、とも思う。バラードにとって、人間っていうのは、すでに終わったはずの存在であり、終わったところ、あるべきところに帰って行くというのが、本質的なストーリーなのかな。終わったところが楽園なのだけれど、この小説では、男性というものが終わり、生殖システムだけが残る、そういう楽園を描きたかったのかもしれない。

 サミュエル・R・ディレーニーの「ベータ2のバラッド」(国書刊行会)も読んだぞ。なんか、SFをたくさん読んでいるなあ。
 「ベータ2のバラッド」は「エンパイアスター」と同じ時期に書かれた初期中篇。ディレーニーの頭の構造って、やっぱり普通とちがっていて、そこがすごいとこなんじゃないかっていうのは、あらためて感じた。「エンパイアスター」がいいのは、シンプレックス、コンプレックス、マルチプレックスという認識のあり方の違いが誰にでもわかるように説明されていたことだし、そのことそのものがテーマだった。じゃあ、「ベータ2…」はというと、宇宙空間に存在するかもしれない超越的な意思を持った存在っていうことになる。宇宙において、ほんの小さな知覚しか持たない人間に対し、まさにマルチプレックスな知覚を持つ存在がいたとして、それはどんな存在なのか、それが何をもたらすのか、という。そのことが、すごく
ベタに書かれていて、「エンパイアスター」ほど高い評価ではなかったのかもしれないけれども。
 「バベル17」の言語の話は今から考えると、コンピュータ言語を操る意思って何なの?っていうものを含んでいるのかもしれない。感情によってはあやつることが不可能な、一人称を持たない言語、というのは、それは実は宇宙の超越的な意思の言葉だったりして。
 実は本書は若島正によるアンソロジーで、この他にもバリントン・ベイリーやキース・ロバーツやリチャード・カウパーハーラン・エリスンといった、あまりにも渋いセレクションがなされている。ロバーツの第2次世界大戦でドイツが勝ったという歴史改変小説は、なかなか悲しく描かれているし、カウパーの時間旅行物もとても奥行きのあるつくりで、とてもいいけれども。でもまあ、ディレーニーの中篇を読むためだけに本書を買ってもいいと思うのであった。

 今日は,娘の小学校、いわば文化祭のようなものである。ということで、これから息子を連れて遊びに行くのであった。娘のクラスは迷路だそうで。

 「戦闘美少女の精神分析」を読んだのをきっかけに、「あずまんが大王」のアニメをすべて見てしまった。子供たちもけっこう喜んでいたし、主題歌がすごく気持ちいいのだけれども。娘は大阪の真似やちよちゃんの真似をして喜んでいるし、ぼくはヨミのさりげないウエストの太さに、ちょっといとおしさを感じてしまうのであった。

 それにしても、前回パワポのことを書いたら、妙に反応が多かったな。