こちら葛飾区水元公園前通信786

tenshinokuma2012-02-29

 実は今回も、深夜マックからです。
 もう2月も終わるんだなって思うと、まあ、なんですね。寒さがゆるんできたのはいいんですけど。毎日があまりにも早く過ぎていきます。

 今頃なんですけど、「魔法少女まどか☆マギカ」を最終回まで見ました。あれから、1年近くたつんだな、などと思いながら。基本的な感想は、コミックスを読んだときと変わっていません。ただ、アニメーションの方が、ビジュアル面で力が入っているというか、情報量が多いというか。そういうインパクトが強い、というのかな。
 なぜ、魔法少女に多くのものを背負わせてしまうのだろう、ということがどうしてもあります。ヘンリー・ダーガーが残した作品ではないのだけれども。というか、そのことは魔法の亜流というか、「美少女戦士セーラームーン」でも「東京ミュウミョウ」でも、という以上にたぶんプリキュアシリーズでより強いって思うのだけれども。
 ぼくはどうしても、少女に対する幻想について、否定的になってしまうので。それでどうしても、まどかに対してせつない気持ちになってしまいます。
 ということとは別に、キュウベエの問いかけというのは、「ハーモニー」みたいな話なのかな、とかね。そこがいちばんSF的だな、とか。

 「女子高校生は異常」を見るたびに、最近見た異常な女子高校生を思い出します。カップうどんを食べながら新御茶ノ水駅のホームを友達と歩く姿というのは、それは普通、男子高校生でもやらないぞ、というものだったので。
 それにしても、高校生は男女ともそれなりに子どもだし、かなりおばかだと思っているので、そういう姿を見ると、かえってほのぼのしたりします。

 でもね、そこでほのぼのするっていうか、安心するっていうのは、逆に安心できない存在があるからだとも思うのです。
 友人の指摘する、橋下大阪市長を支持する人たちへの嫌悪、とでもいうのでしょうか。
 ぼくは橋下ってろくでもない人間だと思っているんだけども、それはどうしてかっていうと、弱い立場の人たちへの視点が欠落しているから。でも、それは、実はめずらしいことじゃない。ただ、多くの人はだまっているだけ。政治的に正しくないから、なのかもしれない。
 弱い人たちって誰のことか。選挙権も経済的な力も持たない子ども。あるいはあいりん地区の日雇い労働者。あるいは。
 そして、その人たちは、数の上でも力の上でも少数派だ。大多数は、少数派に厳しい。最近の子どもはしつけがなってない、日雇い労働者は努力をしてこなかった、などなど。

 税と社会保障の一体改革の話を役人から聞いたとき、なるほど、と思うこと、ちょっとびっくりしながらだけど、そう思うことがあった。それは何かというと、社会保障というとき、イメージとして高齢化社会に対する医療や介護、年金といった問題というのがあるのだけれども、実は児童福祉がその一方でどれだけおろそかになっているのか、ということ。
 お金だけの問題を言えば、ばらまきと思われている「子ども手当」が、高齢者福祉の支出と比較するとわずかなものでしかないということ。お金持ちの高齢者が多額の年金を受け取り、あるいは手厚い医療を受けているというのに。子どもについては、税などによる所得再分配によって、かえって貧困率が上昇していたり、とか。
 だから、一体改革では児童福祉についてももっと力を入れる、ということだった。

 ぼくは「子ども手当」をなくそうとし、あるいは「高校無償化」をやめさせようとしている人たちを信用できない。それは、ばらまきなんかじゃないと思うから。それは、子どもが育つのは社会の責任であるというコンセンサスに対するものなのだから。
 たぶん、そこに思い至らない人がたくさんいる、そのことが、どうしても絶望的な気分にさせてしまう原因なのだと思う。
 それが、形としては、橋下を支持するというものなのだと思う。

 「希望論」(NHKブックス)において、宇野常寛濱野智史が、小泉改革以降の自由を評価するっていうのは、どういうことなんだろう、とずっと思っている。
 いろいろな生き方ができるようになった、のかもしれない。他の生き方を探さなきゃいけなかったのかもしれない。
 ぼく自身は、結局、会社員じゃなくなってしまったのだけれど、まあそれはいいや。ただ、こうした働き方として、ロールモデルが実はあって、それは学生紛争などでまともに就職できなかった人たちだったりする。団塊の世代の一部、かな。
 今でも、一般的に会社員をやめるべきじゃないと思っている。フリーで生きていくためのインフラが整備されていないから。
 まあ、それはいいや。
 戦争を希望にされても困るし。
 絶望的な気分にさせる人がマジョリティだということなわけだけれども。
 でも、どうなんだろう。会社員でいるっていうことは、キュウベエ的な世界っていうことなのかな、とも思ってしまう。そこでまどかに期待するのは、どうなのか、とか。
 だったら、おばかな男子高校生、異常な女子高校生に期待したほうがまだまし、なのかもしれないと思うのです。

 「ザ・クライム」と創元SF文庫版の「殺人者の空」を読み、これで山野浩一の全作品をほぼ読んだことになります。これまで、「X電車で行こう」「鳥はいまどこを飛ぶか」仮面社版「殺人者の空」「レボリューション」という短編集と「花と機械とゲシタルト」という唯一の長編を読んでいたので。
 あらためて、山野と円城塔の作品の感触って、似ているなって、ずっと感じていました。どちらも安部公房に影響を受けた、ということなのでしょうか。でも、それはちょっと違うかな。もっと、SFということでは、ニューウェーブ、とりわけJ・G・バラードなんじゃないか、とか。
 世界っていうのは、見方を変えると、いろいろな可能性があるのだと思います。例えば円城の「これはペンです」というのは、文章が先に存在する作者という可能性、でしょうか。山野は「霧の中の人々」において、山という下界から離れた場所で、不在であるということについて語りました。
 円城と山野の違いは、物理学者と競馬の血統研究家の違いというと、何となくそうかな、と思うかもしれません。山野以上に円城はサイエンス寄りとでもいうのでしょうか。
 同時に、山野の作品を読んでいて、伊藤計劃とも似ているかもしれない、とも思いました。革命っていうのは運動でしかありえないし、それが止まった世界は「ハーモニー」なんじゃないか、とか。山野の最初期の作品であり、60年代SFの雰囲気たっぷりの「開放時間」では、21世紀になって未来におけるタイムマシンの発明による時間の移動が自由になったあとの世界が描かれているのだけど、そうした時間から開放された世界が幸福なのかどうか。当然、それを否定する人たちがいるわけだけども、という。けれども、そのあり方が後の、運動としてしかありえない革命につながっていくという。
 伊藤がバラードに影響を受けているというのはよく知られているし。それに、伊藤は円城の盟友。作風はすごく違っているけれども、その間に山野の小説を置いてみると、何となくつながっていく気がする。それはやはり、安部公房ではなくバラードが背後にあるんじゃないか、と思うのです。

 もう、伊藤の新作もバラードの新作も読めないし、山野は作家としてはとりあえず完結している、そういう中で、円城の作品はまだ書かれるというのは、いいことなんだな、と思うようになりました。
 円城の作品は、何を読んでも同じなんじゃないか、と思っていたのだけれども、同じようでいて、少しずつ手探りで掘るところはあるのかな、という。だから、円城が伊藤の残した作品を書き継ぐというのは、新しい領域がそこにあるのだろうと、期待してしまいます。

 そんなことを、あいかわらず、ぐだぐだと考えているわけですが、それはそうとして、来週はラス・ベガスに出張の予定です。
 それと、来週発売の週刊エコノミストにはひさしぶりに記事を書いたので、立ち読みとかしてもらえるとうれしいです。

 写真は、東京人の増刊号。地元の特集なので、買ってしまいました。