こちら葛飾区水元公園前通信810

tenshinokuma2013-11-28

 こんちは、です。
 予告通り、今回も宣伝から。
 11月26日に刊行されました、「業界大予測2014」(洋泉社ムック)では、電力・ガス業界を予測させていただきました。ついでに、スマートグリッドと日本のエネルギー政策の解説もしています。ということで、本屋で見たら、立ち読みをしてやってください。
 それから、12月5日発行の「リベラルタイム」1月号では、特集「歴史は繰り返す」の中で、オイルショックは繰り返されるのかどうか、論考しています。これも、発行されたら、ぜひお立ち読みを。

 まあ、歴史は繰り返すといえば、アレですがね。なぜ、こんな状況なのに、安倍政権が傾くということがないのか、不思議といえば不思議なのですが、困ったものです。

 先日、久しぶりに海に行って釣りをしてきました。今年最後、かな。息子も来年は中学生になるので、のんびりと休日に釣りをすることも少なくなりそうですが。
 この時期、カワハギが釣れるとうれしいな、と思っていたのですが、その姿はなかったですね。でも息子は、小さいけどメジナを釣って、けっこう満足したみたいです。この時期のメジナは海藻を食べているので、青のりの味がしました。というか、魚はすべて、唐揚げにしたのですが。
 でも、お願いだから、ゴンズイ玉の中にさびき針を投入しないで欲しいとは思いました。いや、まあ、釣れれば楽しいからいいんですけどね。あとのことも考えて欲しいです。

 めいびいの「黄昏乙女×アムネジア」が10巻で完結しました。主人公が入学した中学校で、女性の幽霊に出会うという話です。アニメ化もされました。幽霊の夕子は自分がなぜ死んだのか、記憶がありません。そのまま60年が過ぎたという。そこではじめて、夕子の姿を見ることができる男子が入学してきて、物語が動き出します。
 幽霊の夕子が、とても魅力的に描かれていること、主人公の貞一の成長物語としての構造、夕子の死の謎など、物語を引っ張る要素が十分にあって、とても楽しめたし、成長物語という点では、夕子の方が年上に設定されているところも。めいびいは元々、成人向けのマンガを描いていた人なので、そのあたりのサービスも含めて。何といっても、夕子は貞一にしか見えないので、どんな場所でも夕子はいちゃいちゃしたがるという、何というか、まあ、いいんですけど、みたいな。
 でも、この作品は、幽霊とのラブストーリーという点で、最初から出口がないような設定になっているというところで、考えてしまうのです。この点は、はっとりみつるの「さんかれあ」も同じなのですが。だから、どう決着をつけるのかっていう。そのことと、60年間、孤独の中で生きて(死んで)きた孤独というものが、照射されるという構造。
 あるいは、主人公にしか見えない女性とのラブストーリーということでは、どちらがどちらを独占するのかという、古典的な枠組みも用意されているというか。
 物語は、夕子がいかにして救われるのか、に向かって進みます。あるいは、救われないのか、という。
 そんなものを含んだまま、めでたく完結したというわけです。
 個人的には、舞台は高校でも良かったんじゃないかとは思うんですけどね。

 岡和田晃の「「世界内戦」とわずかな希望」(アトリエサード)を読んでいるところです。評論集ですが、起点は伊藤計劃。ぼくとしては、伊藤以外の日本SFをあまり読んでいないのですが。伊藤の「虐殺器官」で描かれた世界が、世界内戦っていうのは、多分、現代の戦争というのが、その戦争を国家間の紛争ではなく、世界の中の国々の内部の都合で展開されている、というような状況なのかもしれません。冷戦がなくなったのに、紛争は続く、という状況ですね。希望はないですね。戦争が希望だったりもすると、救われませんが。
 で、辺見庸は、今の日本を戦時だとするのだけれども、それは岡和田の見方をつなげていくと、その通りだな、と思います。
 そもそも、現在の日本は尖閣諸島などの領土問題があるように見えます。けれども、こうした領土問題は、中国との紛争の可能性よりも、このことを口実に外部に敵を想定させ、国内を戦時下において、政権の求心力を高める、ということに使われています。それは、米国の中東などへの派兵、侵略なども同じです。
 戦時であるというロジックで、いろいろなものが簡単に切り捨てられる、そう思います。
 そうした中で、確かにSFは、そもそも思考される未来の形を描いてきました。ディストピアSFが描く未来は、けれども人間が進歩しなければそうなるというのは、帰結としてあります。
 岡和田が取り上げるSF作品は、例えば2000年代に描かれるものとしては、そういった気が滅入るようなものになる、ということなのでしょう。
 けれども、岡和田はこの本の第2部で、先行する世代を取り上げます。J・G・バラードを起点に、山野浩一、藤枝静雄、笙野頼子。そして原発に関連したノンフィクション。

 ということで、思い出したのは、3.11の風景で忘れられないのは、浜辺に数百数千もの死体が打ち上げられた光景です。実際に見たわけではありません。ラジオのニュースで繰り返し、海岸にそれだけの死体があるという情報が伝えられている、と報道されたときの、頭の中のイメージです。それを、終着の浜辺だというつもりはまったくありません。
 もちろん、バラードが上海で収容所にいた後、原爆の光を見たことと逆転するように、福島県浜通りの人々は、原発事故を契機に、避難所にのがれ、仮設住宅で暮らすしかなかった、それをある種のユートピアのように語ることもぼくにはできません。

 とまあ、そんなわけで、PTAとか町内会で土日がけっこうつぶれたりしていますが、どうにかやっています。小学校では不登校を話題にした講演会みさせていただきましたし。
 来年は絶対に、PTA役員にはなりません。と、書いておきます。中学校も高校も断るということで。少し休みたいな、というのが本当のところです。

 ではまた。