こちら葛飾区水元公園前通信849

tenshinokuma2016-11-13

 こんにちは。
 まず、宣伝から。
 トーキングヘッズ叢書No.68「聖なる幻想のエロス」が刊行されました。
 今回もぜひ、ご購読をお願いいたします。
 ぼくは、今回は「汗と茶豆」という短い原稿ですが、背景に堀江ケニーさんの写真が使われていて、なかなかすてきなページになっているので、ぜひ見てやってください。

 10月の終わりには、母親、弟一家、息子の7人で千葉の九十九里に泊りがけででかけました。母親が、元気なうちに、泊りがけでおいしいお刺身を食べに行きたいということで。受験生の娘とかみさんはおるすばん。弟の運転で。
 親父はというと、行く予定だったのに、直前になって、行かないって言い出して。まあ、出かけるのがめんどくさくなったのかな。しょうがないですね。
 宿泊したのは、旭市にある磯なぎ荘という民宿。オーシャンビューの部屋に、郷土料理で、けっこう安いのですが、大学時代の先輩が経営しているので。そういう縁もあって。
 実は、東日本大震災のときに、津波の被害にあっていて、それがすっかりきれいに改装されていて、というのを見たかったし。
 お風呂は、海藻湯。いい出汁が出ていました。
 今は釣りきんめのシーズン、ぜひ、行ってみてください。と宣伝しておきます。
 そのうち、娘とかみさんを連れて行きたいとも思っています。そのときは、電車だけど。
 そうそう、このあたりの名物といえば、銚子電鉄ぬれせんべい。直営店「濡れせんべい駅」もあって、弟の子供たちは、自分でせんべいを焼いてました。

 11月4日から、モロッコマラケシュで、地球温暖化防止の国際会議、COP22が開催されています。新聞では、日本がパリ協定への批准が遅れて、オブザーバー参加に、みたいな記事が掲載されています。
 このテーマにずっと関わってきた立場から言わせてもらえれば、日本という国がどれだけマヌケなのかが、とてもよくわかる出来事です。

 日本の批准が遅れた理由は、ひとつは誰も関心を持たなかったこと。第二に、海外の状況を正しく把握できていなかったこと。
 でも、結論から言えば、こんなマヌケな国にとって、批准を急ぐ理由は何もない、ということです。

 パリ協定の発効が早かったのは、早い段階でアメリカと中国が同時に批准したこと。日本は遅くともこの時点で、このテーマの国際政治の流れに気付くべきでした。
 これまで10年以上も、日本は「アメリカも中国も参加しない枠組みは意味がない」という口実で、地球温暖化対策をさぼってきたのですから。それが、アメリカも中国も参加しているけれど日本は参加していない枠組みになってしまったわけです。

 日本の産業界は、地球温暖化対策については、積極的な対策についてはずっと否定的でした。エネルギー業界が平然と「石炭火力発電所を建設する」といった計画を持っているあたりからして、わかってねえな、と。
 もちろん、東日本大震災でそれどころではない時期があったことは認めます。でも、その点については、5年以上もたっているのです。復興したとはいえませんが、かといって今まで通りというわけにもいかない、ということを理解するには十分な時間があったはずです。

 アメリカと中国がなぜ早期に批准したのか。それは、地球温暖化対策をしなければ、ビジネスができないからです。けれども、日本の産業界はそれをビジネスにすることを考えていませんでした。
 その産業界がロビー活動で足を引っ張ったあげく、「パリ協定に早く批准すべきだ。そうでないと日本は国際交渉に参加できない」みたいなことを、経団連会長が言うという。
 そして、マスメディアは産経新聞を除けば、パリ協定の批准が遅れたのは日本政府の失態、みたいな論調ですが、そもそも、地球温暖化防止の国際交渉を正確に報道してこなかったし、ページもさかなかった、というのは、マスメディアの責任でもあるのですが、それは棚上げにされています。

 さらに言えば、今となっては早期批准を求める論調が多いのですが、そもそも批准して何をするのか、日本政府にも産業界にもそんな目的意識はあるように思えません。
 だったら、日本は批准したところで、交渉の足をひっぱるだけだし。後から参加して、決まったことを忠実にまもるほうが、よほど日本のためになります。

 とまあ、この件に関しては、日本という国がどれだめマヌケかということは、いくらでも言えるわけですが。

 まあ、これだけじゃなく、アベノミクスも小池劇場もマヌケなものなので、そういう意味では、日本はどうしようもないなあ、とも思いますが、そう言ったからといって、何か良くなるわけではないですね。

 ケイト・ウィルヘルムの「翼のジェニー」(アトリエサード)を読みました。SFの新刊としては、サンリオSF文庫いらい。好きな作家です。「杜松の時」がフェイバリットなのですが。そう思っているのに、内容をすっかり忘れています。「カインの市」も「クリーイストン実験」も「鳥の歌いまは絶え」も読んだのに。
 読み返す楽しみができて、いいか。
 アーシュラ・K・ル=グインやジョアナ・ラスとちがって、フェミニズムは背景になっているし、ティプトリージュニアのように性差がそのままSFのテーマに入ってくることもあまりないのですが。それでも背景を含めて、ちょっと不親切なSFは、本書でもけっこう楽しみました。
 ところで、収録されている「エイプリル・フールよ、いつまでも」を読みながら、SFと現代思想のギャップも感じました。
 SFというのは、どうしてもサイエンスによって立つ、というところがあるのだと思います。そこに寄って立つ思弁というのでしょうか。ある意味、価値観に対して中立というのでしょうか。
 例えば、生物はもっとも効率的で環境に適応した生殖システムを持つ種類が生き残る、としましょう。その結果として、知能を持つ生物種に対しても残酷な運命が待ち受ける、ということになります。それは、ティプトリージュニアの「愛はさだめ、さだめは死」が典型的な例です。
 けれども、その残酷な運命を回避することで、人間は人間になってきたのではないか、とも思います。それは、サイエンスではなく、人間を人間たらしめる幸福への価値観、とでもいうべきものでしょうか。

 前回、紹介した、立岩真也他「生の技法」(生活書院)と、「現代思想10月号、相模原障害者殺傷事件」を読んだあとに、「翼のジェニー」を読んだから、そう思うわけですが。
 優生思想というのは、環境に適していない人間は淘汰されるべきだ、という、ざっくり言えばそういうものです。そこには、個人としての幸福になる権利みたいなものは、忘れられています。
 生物集団として考えたときに、淘汰されていくというのは、いい悪いは別にして、自然なことだとは思います。現実に、人間を除くほとんどすべての生物は、かなりの個体数が淘汰されながら生き残っていきます。
 けれども、誰かが淘汰される社会と、誰も淘汰されない社会とでは、人はどちらが幸福になれるのか。
 それは、SFという枠の中でも、きちんと考えられるべきことなんじゃないか、とは思います。
 もっとも、だからといって、ウィルヘルムを批判しようとは思いません。それは、時代的な背景もあると思います。
 その上で、フェミの背景が現代社会に入り込んだ、彼女の「炎の記憶」のようなミステリーをもっと読みたい、とも思うのです。

 保坂和志の新刊が2冊も出ました。そのうち「試行錯誤に漂う」(みすず書房)を読みました。もう一冊は、これから。
 保坂は「未明の闘争」という小説では、何度も書き直しをしながら、原稿を書いていったそうで、あーでもない、こーでもないという書き損じが、活字の裏側に堆積しているそうですが、その点、「みすず」に連載されたこのエッセイは、基本書き直しなし、思考のぐだぐだがそのまま文章になった、という本です。
 ぐだぐだプロセスは、それとしかいいようがないもので、それを楽しめるかどうかですが、ぼくは好きです。
 ベケットについては、けっこう言及されていて、何も書くことがないところから出発したというベケット感というのは、そうなんだろうな、と思いました。思うと同時に、保坂がとりあげている「モロイ」や「名付けえぬもの」などの小説は、実はぼくは読んだことなくて、その先にある「ベケット戯曲全集」とか晩年の「伴侶」「いざ最悪のかなたへ」みたいな作品しか読んでいないということも気付いて。やっぱ、ベケットの小説も読んだ方がいいのだろうか、と。
 そう思いつつ、それとは関係なく、「イヨネスコ戯曲全集1」を買ってしまったのでした。上演された「椅子」のビデオを見たけど、セリフが聞き取りにくくて、というのもありますが。

 今期は、深夜アニメの話題はなし。ガッキー(新垣結衣)がひたすらかわいい「逃げるは恥じだが役に立つ」が一番の楽しみかも。もっとも、ガッキーのかわいさは「掟上今日子」のが上だったかな、とは思いますが。

 高原英理の「不機嫌な姫とブルックナー団」を読んだので、図書館でブルックナーを借りて聞いているのですが。うーん、よくわからないです。すいません。

 トランプ大統領については次回。