こちら葛飾区水元公園前通信651

 6月11日、ちょっと仕事のつきあいで、北千住にあるシアター1010に行き、わらび座の「銀河鉄道の夜」を観る機会があった。ミュージカルである。舞台を見るのってひさびさでした。セットは星をLEDでちりばめたりして、とてもきれいだったし、俳優の動きは、ジャンプが決して高いわけではないけれど、すごくていねいな動きをしていて、良かったです。たまには、いいですね。

 その北千住の帰り、やはり1010じゃなかった、銭湯に寄った。駅の反対側にある美登利湯というところで、ロビー形式、そこそこ建物は新しいけれど,お湯がちょっと熱かったです。商店街の中にある、わりと小さな銭湯なんですけどね。

 小森陽一の「村上春樹論」(平凡社新書)を読んだ。村上の「海辺のカフカ」は癒しの小説ではなく、もっと暴力的な、911以降として位置付けられる作品ということだ。この本を精読していくと、まず「オイディプス王」のモチーフが出てくる。主人公の田村カフカはひょっとしたら父親を殺したのかもしれないし、母親と寝たのかもしれない。また、「千夜一夜物語」やフランツ・カフカの「流刑地にて」や夏目漱石の「坑夫」「虞美人草」が援用される。毎晩のように女性不信から処女を殺す王の暴力、カフカの描く処刑機械、あまり考えない「坑夫」の主人公、「虞美人草」における女性嫌悪。テクストによって示されるのは、暴力の記憶を消し去ろうという暴力ではなかったか、そのために、女性嫌悪というモチーフをおしつけて責任転嫁していく、というのが小森の指摘である。
 つまり、一度暴力の存在を明らかにしながらも、それが問われることなく逃れて行く、そういう小説だというのである。それはまさに、斎藤環が指摘するような「精神的外傷からの乖離」ということになる。村上は「ねじまきどりクロニクル」でノモンハン事件を描いたし、阪神大震災地下鉄サリン事件についても書いて来た。その村上が、日本の戦争による暴力を描きながら、それは例えばナカタさんが女性である担任の先生による暴力で記憶をなくし、そこにすべての罪が集約される、カフカの父親殺しの罪は問われることはなく、むしろそこから解放されていく、という。
 小森は確かに、護憲運動にもかかわっているように、戦後民主主義を守り、戦争責任は明らかにしていこうという立場である。そうした小森の村上の読みは、でも少しバイアスがあるかもしれない、とも思う。村上はそんな単純な作家ではないと思う。あるいは複雑な作家ではないと言うべきか。多分、村上はずうっと暴力を描こうとしてきたし、それはすごく陰湿な形で訪れるということも書いて来た。例えば「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」がそうだし、その暴力は決して見えないものではなく、時に地下鉄サリン事件のように人々の目前に立ちあがってくるものでもある。そこで、多くはなすすべがなく、小森のように戦うこともままならない、というのが、小説家としての村上の視点なのではないか。戦争責任を忘却させ、精神的外傷を乖離させることによって、読者に癒しをもたらそうというものではないし、それはそうとしか対応できない人間の弱さなのではないか、とも思う。
 「海辺のカフカ」が癒しを与えてくれる小説だとは思わない。もっと陰惨な暴力を描いた小説だし、とりあえずカフカが救われるのかもしれないけれども、そこでは何も解決していない、そういう小説である。
 小森の姿勢、戦後民主主義を守ろうとする活動は支持するし、「海辺のカフカ」の読みもかなり納得してしまうものではある。明らかにされた構造は、多分そうなのだろう。それでもなお、小森は村上に多大な要求をし、裏切られているのだと思う。

 そんなわけで、固定資産税を先日、払ってきました。今年からコンビニでも払えるということですが、ファミマで税金をまとめて払うというのは変なものです。たいした額ではないのかもしれないけれども、ぼくとしては大金を払うわけだし。そんなわけで、今は少し貧乏です。

 加門七海の「怪談徒然草」(角川ホラー文庫)は、加門が実話を語るということで、面白かったですね。実話はそんなに大仰な話ではないのだけれど、怖い小ネタがつながっていって、最後にちょっと大ネタが入って、けっこうヤですね、といったところです。加門の幽霊なんかが見えてしまうっていうのが、なんか面白いっていうか、そういう読み物だし、正直なところ、加門の小説よりも面白いのではないか、と思っているんですけど。