こちらつつじが丘野川どんぶらこ通信947

 こんにちは。

 もう、1年の半分が終わってしまいました。

 早いですね。というのをいつも思ってしまいます。

 

 暑いので、ぜんぜんトレッキングに行っていません。まあ、夏山というのもあるわけですが、遠くの山は遠いからなあ、と。腰も重くなります。でも、行きたいという気持ちはあるんですけどね。

 

 釣りは行きました。初心者である同行者でも必ず釣れる、というコンセプトで、小田原市根府川の米神漁港。本当に、初心者でもベラはたくさん釣れました。それだけです。さすがに初心者でも、ベラばかりというのはどうかと、ということで、じゃあ次回は同じ根府川の江の浦漁港で青魚かな、とか、ちょっと思ったりもしています。

 ベラはといえば、もちろん料理しました。今回は三枚におろして唐揚げで、おいしくいただきました。大きいキュウセンとニシキベラとササノハベラを選んで、刺身にしてみました。まあ、ベラ独特の食感はありますが、キュウセンはわりとおいしくいただきました。ニシキベラは、まあ、食べられます、くらいで。

 でもまあ、次回も大きなベラが釣れたら、刺身にします。そのために、針のサイズも9号を基本に使っているのですから。

 

 映画はといえば、「岸部露伴ルーブルへ行く」を観ました。映画のできというよりも、高橋一生と飯豊まりえを見ていればいいかなあ、と思わないでもない、それがルーブルに行くという、そうした楽しさが感じられました。

 究極の黒、という物質は実際にあって、それはあらゆる角度から入る光をすべて吸収してしまう物質。実際にその物質を観ると、何かあるというより、そこだけ穴が空いているように見えるとか。

 

 「忌怪島」も見ました。娘はホラー映画が好きなのですが、それで一緒に見に行って欲しいと言われます。

 島をまるごと取り入れたVRの世界をつくるというプロジェクトが行われているところに主人公が到着。そこでは、VRの側が死者の世界であり、そこから現実世界に、虐殺された女性の霊が出てきてしまった、というストーリー。

 いかにも、な設定のホラーで、怖いという感じはしなかったですけど、そういうアイデアはありかな、とは思いました。

 

 ビデオでは、「MINAMATA」と「土を食う、十二ケ月」は観ました。

 水俣病を撮影したユージン・スミスをジョニー・ディップが演じた映画。水俣病については、石牟礼道子の「苦海浄土」を読んだことがありますが、スミスの写真集もまたインパクトのあるものだったはずで、というのは、ぼくは図書館にあったそれをすべてに目を通すことができなかった、という記憶があるからなのですが。

 水俣病のようなことは、今日でも世界各地で起きているし、福島第一原発の汚染水の海洋放出も似たところがあります。正直に言えば、トリチウム水の影響は大きいとはいえないと考えていますが、それにしても、それを放出する側の都合でしか考えないということについては、不信感しかないですね。ほかの核種が除去されているのかどうかもあやしいですし。

 一方的にリスクを受け入れろ、というのは暴力だと思うのですが。

 そのあと、録画しておいたNHKのドキュメンタリー「MINAMATA」で、元気に精力的に活動するアイリーン・美緒子・スミスの姿も見たな。水俣病ですら終わっていない。

 そうそう、それで佐伯一麦の「アスベストス」(文藝春秋)も読んだけど、アスベスト石綿)肺の問題も終わっていない。

 

 水上勉の「土を食らう」は、昔、「美味しんぼ」で紹介されたときに読みました。映画はといえば、その本を書く作家と編集者との恋愛ドラマという面があります。

 食は大事だなあ、と思いつつ、沢田研二松たか子もいい感じで、こんな感じで田舎に住むのもいいかなあと思わないでもないです。水上は転座の経験があり、食材を生かした精進料理が得意なのですが。

 昔の作家ではないので、ネット環境は必須ですが。

 

 PANTAも亡くなってしまいました。学生時代にバンドで「Audi80」を演奏したことがあるのだけど。でも好きな曲は頭脳警察の「銃をとれ」でしょうか。でも、本当に銃をとった人が元首相を殺害してちょうど1年、その前日にPANTAが亡くなったというのは、なんというか。

 本当に、銃をとりたくなるような世界だとは思います。銃を持たない人々の暴力にあふれた現実世界なのですから。それは、少しも変わっていない。

 頭脳警察は「戦争しか知らない子供たち」を歌っていたけど、戦争すらすらない子供たちばかりになってしまったのかもしれません。

 

 3月に亡くなった坂本龍一の「ぼくはあと何回、満月をみることができるのだろう」(新潮社)を読みました。

 前にも書いたけど、ぼくの坂本に対する興味は、「Out of Noise」以降、ミニマルミュージック的になってからなんです。

 でも、本を読むと、9.11のあと、坂本は音楽が聴けなくて、雨の音ばかり聞いていたことがあったとか。ぼくも、雨の音のCDをエンドレスでずっと聴いていた時期がありました。

 まあ他にも、思うことはいろいろです。

 

 これも、NHKのドキュメンタリーで観たヤン・ソンヒというドキュメンタリー映画の監督の「カメラを止めて書きます」(CUON)を読みました。

 ヤンは在日二世で、家族を撮影したドキュメンタリーを作成。父親は朝鮮総連の役員だったし、だからこそ三人の息子を帰国事業を通じて北朝鮮に帰した。でも、帰ってこないので、こちらから行くしかない。息子たちは北朝鮮で家族をつくり、不自由な暮らしをしている。

 日本に残ったのはヤンだけ。そこから見た北朝鮮と日本と家族、ということなのだけど、このエッセイは、映像ではなく言葉で、映画の裏側が書かれたといったところでしょうか。

 と言いつつ、映画は観ていないのだけど。見たのはあくまで、NHKのドキュメンタリー番組ね。それも面白かったけど。

 

 岩波書店編の「記録 沖縄「集団自決」裁判」(岩波書店)も資料の部分を除いて読みました。

 大江健三郎の「沖縄ノート」が名誉棄損にあたるとして、当事者らや曽野綾子、藤原信勝らが起こした裁判。被告の大江と岩波書店が勝訴するのだけど、そこにはスラップ訴訟としての面、原告がまともに「沖縄ノート」を読んでいなかったという事実もあって、ひとまず裁判所はまともな判決を下したといえます。

 なぜ訴えられたのかといえば、集団自決に軍の命令があったかどうかが争点。そして命令をしたとされる元日本軍の隊長の弟が原告。

 でも、もう少し見ていくと、沖縄において戦時中に集団自決があったことは間違いない事実であるけれど、歴史修正主義者の曽野や藤原は、それを美化したいと考えている。一方、大江や、同じくこの裁判で訴えられた家永三郎らは、日本軍の残虐行為があったことを正しく位置付けたいとしている。

 そして、裁判には勝つのですが、歴史教科書からは集団自決に軍の命令があったという内容は消えていきます。それは、裁判で勝って勝負に負けた、みたいなことなのだとも思いました。

 この本を読んだきっかけは、大江がどれほど優れた作家であり、精力的に反原発や護憲を訴えてきたとしても、そこにはどうしても違和感がある、というぼくの考えに対するコメントがあったからです。

 どういうことか。ぼくも日本ではこれ以上原発を推進すべきではないと思うし、日本国憲法は現時点では改正すべきではないと思っています。

 でも、大江の言う反原発は、「人間性を破壊するもの」ではあっても、「破壊された人間性の上に成り立っているもの」だという認識はないし、「戦争が人間を破壊するもの」ではあっても「破壊された人間性が戦争をつくりだす」ことへの視線がないと感じるのです。

 沖縄戦においては、日本軍の残虐な行為、自決命令にとどまらず、住民の食糧をうばい、離島へと追い出し、離島に避難した住民はマラリアでなくなる。日本は沖縄を捨て石にしてきた、というのは事実だと思うのです。そこまでは大江と一致します。でも、沖縄の人々を差別の対象として、貧しくさせてきた、というのは、日本軍だけの話ではなく、沖縄を除く日本の人々の責任だと思うのです。だから、多くの人が沖縄から海外に移住したし、戦後も容易に沖縄を本土から切り離す。そうした差別があったからこそ、沖縄の人々は集団自決命令に従わざるを得なかったのではないか。そんなことも思いました。

 また、裁判で勝って勝負に負けたけれども、この本からは、勝負に負けた反省はあまり語られません。それも大きな問題だと思うのです。あるいは、リベラル知識人の限界とでもいうのでしょうか。

 もちろん、歴史教科書から、集団自決命令が消えたことは指摘されますし、他にも従軍慰安婦南京虐殺などを消そうという歴史修正主義の攻撃は続いてきました。

 でも、そもそも、教科書検定というしくみが、「政府の都合で歴史を書き換えることを許す」しくみであり、そのしくみを残すということは、相手から武器を奪わないということだと思うのです。

 歴史に限らず、学問の内容が、そのときどきの政府の意向に従う、ということは、本質的にあり得ないことです。だからこそ、学術会議の会員の任命も、制度上、内閣が任命するとあっても、その任命を拒否してはいけないのです。拒否してしまえば、政府に都合のいい助言しか得られなくなります。それでは学術会議の役割を果たせません。

 だから、リベラル知識人は、教科書検定そのものをなくす運動をすべきだったし、少なくともそうした主張を展開すべきだったと思います。

 日本国憲法についていえば、第9条を守るのではなく、第10条以降の、基本的人権にかかわる内容を実現することが必要だったと思います。

 大江らがいくら憲法第9条を守ることを訴えたとしても、現実には基本的人権そのものが守られていないことが多すぎる。直近でいえば、LGBTQ法が、Tに対する差別を正当化するものとして修正されたことが記憶に新しいことです。

 大江も坂本龍一も鬼籍に入り、第9条を守ろうという、あるいは反原発を主張する人たちがいなくなっていくイメージがあります。後継者はいないのか、とも言われます。でも、そうではないのです。若い世代、基本的人権が取り上げられてきたロスジェネ以下の世代にとって、平和憲法も反原発も遠い話だと思うのです。けれども、それが遠い話だと思わなかったリベラル知識人には、後継者などいないのです。

 

 なんか、今年は東京ヤクルトが低迷していますが。でも、元々低迷することがおおいチームなので。いや、まあ、いいんですけど。神宮球場には、行かなきゃ。