大江健三郎のこと

大江健三郎が亡くなった。ということで、いちばんの思い出は、ウォレ・ショインカとの公開討議。ずいぶん昔の話なので、何を話していたのは、あまり覚えていないのだけど、まずは、ケン・サロ=ウィワの追悼から始まった。サロ=ウィワがナイジェリア政府によって処刑されたのが1995年11月だから、公開討議もその直後だったはず。

ショインカはナイジェリアの劇作家で、ノーベル文学賞をアフリカの黒人として初めて受賞している。サロ=ウィワも作家だけれど、シェルの油田開発に対する反対運動に身を投じて、逮捕され、処刑された。写真の本は、その獄中手記。

ナイジェリアは、当時、民族問題と油田開発の問題を抱えていた。

ナイジェリアの支配的な民族はヨルバ族で、サロ=ウィワのオゴニ族はマイノリティだった(ちなみに、「やし酒のみ」のエイモス・チュツオーラはヨルバ族)。

そして、オゴニ族の居住地で油田開発がすすめられ、環境問題と民族問題の2つの面でオゴニ族が迫害されていた。

そして、その迫害に加担していたのが、石油資本ということになる。

当たり前だけれど、それはぼくたちが実際につかっているエネルギーにつながってもいる。

世界はあいかわらず、困難な状況にある。ウクライナもそうだし、パレスチナもずっと。あるいはミャンマー、イエメン、チベットウイグル。同時に、日本もけっして平穏な状況ではなく、民族問題がなくなったわけではない。

ぼくがどうしても、大江健三郎を必ずしも肯定できない部分があって、それは晩年の「9条を守る会」に代表されるように、戦争放棄の部分に集約されがちだったっていうこと。この運動が、9条を守ろうとすればするほど、10条以降が置き去りにされてしまう、そういう違和感があった。

沖縄ノート」は重要な、優れた著作だと思うし、学ぶところも多かったけれど、それでも、それは日本人における戦争の問題であると同時に、本当は民族問題でもあったはずなのだけれど、なんだかその印象は薄い。ぼくが読めていないのか、忘れているのかもしれないけど。
もちろん、裁判のことは知らないわけじゃない。日本軍が住民に自殺を強要したのは事実だろうと思うし、本土の人と沖縄の人の間にはそうしたギャップがある。
でもそれは戦後も続く話だ。結局のところそれは、戦争の問題ではないのだろう。その文脈でいけば、本当は9条を護ることではなく、沖縄においても未来に向けて10条以降を具体化していく話になる。だから、「9条を守る会」としてまとめられてしまうことに違和感がある。
それはひょっとしたら、「ヒロシマノート」と並べてしまうことによる齟齬なのかもしれない。

繰り返すけど、護憲っていうけれども、それは9条を護ることだけではなく、10条以降をいかに具体化していくのかということは、もっと問われてもいい。しかし、それがずっと主要な問題にはされなかった。それを大江個人の責任にするつもりはないけれども。

直近の話でいくと、徴用工の問題がある。どうように、従軍慰安婦の問題があって、これらは沖縄以上に、一部の人にとってデリケートな問題になっている。

徴用工の問題は、賠償の問題になっている。誰が負担するのか。そして謝罪の問題。

けれども、本質的な問題は、歴史上の出来事を明らかにしていくことなのだと思う。そして、そのことを共有すること。

9条を護るということは、条文を護ることなどではなく、その前提となることを生きることなんだと思う。

大江は、先の討議にもあるように、世界でどんな問題がおきているかはわかっているし、発言もしてきたと思う。講談社文芸文庫の、やたらと厚い3冊のエッセイ集には、あったんじゃないかな、とか。というか、エドワード・サイードとは友人だし、ということはさておいても、パレスチナの問題にも関心があった。そのことは書かれていたと思う。それでもなにか、どこかで無自覚なところがあったのではないか、とも思う。

せっかくなので、エネルギーの問題に戻す。

ぼく自身は、原発はないほうがいいと思うし、とりわけ地震国にこんな設備をつくることには狂気といってもいいところがあると思う。これは、大江も合意すると思う。

けれども、日本には、原発を誘致することで生き残ろうとする地域があるということにも目を向けるべきだと思う。例えば、核燃料再処理は中止すべきだと思うけど、実際に中止したときに、六ケ所村の人たちはどんな将来をイメージすればいいのだろうか。

あるいは、気候変動問題が深刻化するくらいなら、原子力を受け入れたほうがまだまし、グレタ・トゥーンベリはそう思っているのではなかったか。

大江が偉大な作家であればあるほど、何か欠落した視点が気になってくる。

そう思ってしまう。

ぼくは大江のいい読者ではないので、ここで書いていることは、ちょっとアンフェアじゃないか、とも思うけれど。「万延元年のフットボール」とか、多少は読んだけれども。でも、大江の本をそんなにたくさん読んだわけじゃないので、たぶん、それをこれから少しずつ読んでいくことが、供養になればいいな、と思う。