こちら葛飾区水元公園前通信798

tenshinokuma2013-01-25

 あけましておめでとうございます。
 といっても、もう1月も終わりです。いつもなら、まだ正月気分なのですが、今年はどうしても暗い気持ちになってしまっていけません。
 安倍首相の顔を見ると、なんか、ダメですね。

 アベノミクスは、基本的にまちがっていないと思っています。円安・株高となっているし。
 でも、それが人からコンクリートへ、というお金の使われ方につながっていること、そして2%のインフレに対し、所得の名目での上昇が遅れる、あるいはないかもしれないということが問題です。
 懸念されるのは、2000年代前半の好景気のように、所得の減少が企業の経営を支えていたという状況です。

 生活保護の切り下げも、暗いニュースです。捕捉率が2割程度、つまり本来は生活保護を受けるべき人の2割しか受給していないということそのものが改善されることなく、切り下げが進みます。
 これ、生活保護を受けていない人にも大きな影響があります。生活保護は「健康で文化的な生活」を営むためのものですが、勤労所得がこれ以下という人は少なくありません。今回の切り下げは、生活保護よりも勤労所得が少ない人がいるので、それにあわせようというものです。
 本来は、最低賃金の上昇が必要なのでは? これによって、全体に賃金抑制の方向に動きます。2%のインフレなのに、おかしいでしょ?

 という暗い気持ちをリアルにしてくれる本が、森達也の「A3」(集英社文庫)です。上下巻にわかれているけれど、これは必読です。
 2005年から2007年にかけて、月刊プレイボーイに連載されたノンフィクションは、麻原彰晃とは何だったのかに迫ろうとしつつ、むしろオウム化した日本が示されてしまう、そんな本です。
 麻原については、新たな事実は見つかりません。むしろ、精神が崩壊し、裁判に耐える状況ではないということが問題となります。森は一貫して、裁判を通じて事実を少しでも明らかにする可能性を求めるには、麻原の精神鑑定を行い、治療すべきだと主張します。しかし、裁判所はこれを受け入れず、刑の確定を急ぎます。
 麻原がどのように崩壊しているのか。つねにおむつをし、うんこをまきちらし、言葉を話すこともなく、入浴時は裸にされて棒たわしで洗われる。面会時には誰が相手だろうと、オナニーを始める。実の娘の前ですら。
 人々にとって、本当に利益になることは、麻原を死刑にすることではなく、事件そのものを解明し、今後に役立てることのはずなのですが。
 市民社会のオウム化も指摘されています。
 地下鉄サリン事件の背景には、オウム真理教内で危機意識が醸成されていったということがあるといいます。そのことが暴走につながった、という可能性です。
 地下鉄サリン事件以降、市民社会もまた、危機意識が醸成され、暴走しました。
 オウム真理教の信者の子どもを、学校は受け入れませんでした。ここでは、教育を受けるという当然の権利が、人々によって阻害されています。人々は堂々と憲法に違反し、それを当然のこととしてきたということです。そもそも、麻原の裁判が異常なものになっていることすら、暴走といえるでしょう。

 あるいは、地下鉄サリン事件のあと、不当逮捕によって多くの信者が検挙されました。当時、これを非難する声はほとんどなかったと思います。でも、本当は慎重に捜査し、逮捕するべきだったと思います。
 後に、ビラ配りだけで逮捕されるようなことが、オウムと関係ないところで起きています。ぼくたち自身が、何かあれば、簡単に逮捕される、そんな前例をつくってしまったのです。

 オウムと関係なく、こんなことは繰り返されています。尖閣諸島の問題がそうです。これをきっかけに、自衛隊国防軍にして、どうしようというのでしょうか。中国との経済的な結びつきは、米国以上だというのに、です。

 こんなことをきっかけに、憲法第9条がなくなったら、ダメじゃん、という運動もあります。それはその通りです。
 でも、安倍の顔を見て、暗い気持ちになるのは、こうした運動が、ある部分で偽善的だからでもあるのです。
 第9条を守る前に、第10条以降が少しも顧みられていないというのが、現在の日本です。それで、第9条だけを守るというのは、無意味です。そう考えると、例えば、大江健三郎と安倍は同じレベルなんじゃないか、とまで思いたくなります。

 生活保護切り下げにあたって、「健康で文化的な生活」がどういったレベルなのか、誰も問題にしません。わずか0.4%しかない不正受給をなくすことのほうが、さも大事である、というのが、昨年のお笑い芸人バッシングでした。

 生活保護の問題だけではないのです。死刑制度そのものが、憲法で言う人権を守ることに抵触するのかどうか。ぼくは抵触すると思います。
 教育の問題も同様です。「いじめをなくそう」ということではないのです。だれもが安心して教育を受ける権利を行使できるためには、どうしたらいいか、なのです。

 武川正吾の「福祉社会学の想像力」(弘文堂)も読みました。
 内容は、3つの常識とそれが正しくないということに要約されます。
 3つの常識とは、「国民負担率が少ない方が良い」「給付は全員ではなく困っている人に」「税の負担は累進的に」です。
 でも、国民負担率が名目上で少なくなると、現実での負担が増えます。健康保険が抑制されると、診療が受けにくくなり、かえって病気が重くなる、とか。介護給付が抑制されると、本人も家族も苦労する、とか。
 あるいは、困っている人だけに給付しようとすると、困っている人がどんどん絞り込まれます。スティグマもあれば、困っている人に情報が届かないということもあります。生活保護の切り下げが、その例です。
 消費税がいいのは、税収が安定しているということです。北欧が米国よりも所得再配分がうまく行われているのが、その証左だといいます。

 想像力ということは重要です。目の前の危機意識が先行し、広い視野で考えるための想像力が欠如している、というのが、今の日本に住む多くの人々の特長かもしれません。
 その想像力の欠如の代表が、安倍だったりするのではないか、とも思うわけです。

 ビッグイシューという雑誌には、ホームレスである販売員のインタビューも掲載されています。なぜホームレスになったのか。非正規雇用の不安定な生活の先に、仕事がなくなったけれども、社会保障からも抜け落ちてしまったという現実があります。でも、販売員はまだいいのです。高齢化し、販売員になれない、つまり仕事を持つことがそもそもできない人がいます。
 2000年代前半の、派遣社員の拡大は、将来において、社会保障から抜け落ちかねない層として、時限爆弾のように埋め込まれています。でも、想像力がなければ、このことには気づかないのではないでしょうか。

 建設業がかつて非正規雇用の温床であり、2000年代にそれがあらゆる業種に拡大しています。
 それがどのようなものなのか。皮肉にも、福島第一原発で作業する人々の劣悪な労働環境が、その実態を露わにしています。容易にモラルハザードがおきやすい現場で、高度な安全性が求められるプラントが運転されているという皮肉まで明らかにされています。でも、そんなことに対して、誰も規制すべきだとも言わないのも、おかしいのですが。

 赤坂真理の「東京プリズン」は、戦後に人々が無邪気に天皇を受け入れてしまい、そのことについて何も考えてこなかったことを明らかにしていました。
 ほんとうにそう思います。
 天皇もまた、埋め込まれた時限爆弾みたいなものかもしれません。
 また、日本国憲法のことを考えてしまいます。この憲法には、2つの爆弾が埋め込まれていると思います。1つは象徴としての天皇。もう1つは、peopleが国民と訳されてしまったこと。

 天皇が埋め込まれることで、人々の時代認識は狂わされていると思います。
 これは、前にも言いましたが、江戸時代の次は明治時代、ではないのです。本質的には、帝国憲法時代とよばれるべきだと思います。そして、1945年を境に、日本国憲法時代です。国の在り方が、ここを境に変わっているのです。
 ひょっとしたら、憲法第9条を本気で守ろうとしたら、こうした歴史の呼び名すら変えていく運動が必要かもしれません。もう、明治時代とか昭和時代っていう言い方はやめよう、と。
 国民という表記の問題は、人々が国というものに囲われてしまった、排他的なものになってしまったということです。
 日本語の憲法は、国民の権利としか書かれていません。国民ではない人は排除されます。このことが、国の外に対する危機意識を助長させます。

 森達也は「A3」において、麻原の裁判する能力のなさや、信者・教祖の子どもが教育を受ける権利を侵害されていることなどを語る自分を、少数派だと言っています。
 ぼくも、年明けからこんなことばかり考えているので、少数派なのだろうな、と思います。そして、それゆえに、ますます暗い気持ちになります。
 こんな状況では、きっと今年夏の参議院議員選挙のあとは、もっと暗い気持ちになっているのだろうな、とも思います。

 でもまあ、現実には、国民ではない人を排除してはこの国の社会は成立しないし、インターネットに代表されるテクノロジーがもたらす新たな経済や価値観、人間関係は、世の中をもう少しまともなものにしてくれるのではないか、という期待もあります。
 鳩山由紀夫が言う「新しい公共」や、中沢新一が言う「贈与の経済」でしょうか。

 それはそれとして、「たまこまーけっと」の商店街が、製作スタッフから「ファンタジーとしての商店街」だと語られると、切なくなります。その通りなのですが。

 なお、写真は、1月13日に乗った屋形船です。