坂本龍一のこと

ぼくにとっての、音楽家としての坂本龍一は、「Out of Noise」以降ということになる。あと、「Async」かな。「Plankton」と「12」も。
 実は、一時期、音楽が聴けない時期があった。唯一、聞けていたのが、ブライアン・イーノの「Music For Airport」だった。ちょっと回復して、スティーブ・ライヒのなんかも聞いたっけ。それもだめなときは、ずっと雨音のCDをかけていた。
 その先に、「Out of Noise」があった。メロディとかそんなことより、身体にしみこんでくる音だった。
 「音楽は自由にする」というのは、坂本の本のタイトルだったかな。読んだことないけど。
  でも、この言葉って、日本の学校教育にとっては、皮肉以外の何物でもない。
 学校教育において「美術」と「音楽」が決定的に違っているのは、そこに自由があるかどうかだと思っている。音楽については、中学校で終わっているけれども。
 美術の授業では、テーマや手法は決められていても、基本的には好きなものを描いたりすることができる。成績をつけるにあたっては、技術とかそういうことで評価されるのかもしれないけれど。
 音楽はそうではない。演奏する、あるいは歌う音楽は決まっている。楽譜の記号も覚えなきゃいけない。
 なぜだか、作曲の授業はないに等しい。まあ、好きな歌を歌うくらいはできそうだけど。
 たぶん、手先が不器用な生徒が、課題に対してCGを使っても、まあ認められると思う。
 でも、楽器の演奏や歌うことに、打ち込みやボカロで対応したら怒られるのではないだろうか。
 美術は自由だったと思う。ピート・モンドリアンやアンディ・ウォホールのように描いても、あまりなんとも思わない。それはもうクラシックの範疇だと思う。レディメイドまでやったら教師はちょっと怒りたくなるかもしれないけど。
 本当は音楽も同じなんだと思う。そもそも、音があって、それをうまく構成して作品をつくる。そうしてつくられた音が必要だった時期が、ぼくにはあるということだ。
 遠い昔、「サウンドストリート」というNHK FMの番組があった。日替わりで、渋谷陽一をはじめ、佐野元春山下達郎などがDJをしていて、坂本龍一もその中にいた。
 ある日、山田邦子がゲストだったのだけれど、坂本は山田を一人残してスタジオを出てしまった。しかたなしに、山田はちょっとの間、うろたえつつトークするしかなかったのだけれど。なかなか坂本はいじわるだな、とも思ったが、山田がいなくなったあと、坂本は「あれは、ひどい女だね」と話す。いや、それ、公共の電波でいう話じゃないだろ、と思ったものだ。
 そんな坂本は好きではない。
 とくに2000年以降かな、坂本は社会的な発言が増えるし、実際に行動もする。デモにも参加するし、「非戦」なども出版。ap BANKなどにも出資する。
 原発には反対だし、日本国憲法は守られるべきだし、神宮外苑の緑もまた守られるべき。そう思う。同時に、こうした坂本の発言や行動は、あまり教条的な感じがしない。それがいいな、と思う。
 ユースオーケストラのような活動も含めて、若い世代に対して坂本が伝えようとしたことは、「それがいかに自由であるのか」ということなんじゃないかと思う。その文脈において、原発は否定されるし緑は守られるし、日本国憲法第9条は変えてはいけないものになるのではないか。
 もっと言えば、若い世代に「自由であること」が伝わらなければ、原発は危険をおかしてまでの運転が続くし、日本国憲法は変えられてしまう。そういうふうに思う。
 文章を書くことを仕事にしている人間としては、やはりそれもまた自由だと思っている。まあ、現実の制約はともかくとして。
 そして、「Out of Noise」のような文が書けたらいいな、とも思っている。
 音楽家ということに限れば、ぼくにとって坂本龍一の喪失は遠藤ミチロウの喪失に匹敵する。
 でもまあ、人はいってしまうし、すべての記憶を失って生まれてくるのかもしれない。そう思うことにしている。