こちら葛飾区水元公園前通信775

tenshinokuma2011-02-21

 写真は、金曜日にいただいた、仙太郎のぼたもち。おいしかった。

 ぼくは、ミクシィツイッターもやってるけど、さらにフェイスブックもやっている。はてなとアメーバにもブログがあって、微妙につながっていたりいなかったり。それとは別に、自分のホームページがある。
 ということを前提にして、以下の話。
 小川浩の「仕事に使える、フェイスブック超入門」(青春出版社)を読んで、なるほどと思った反面、それでいいのかな、と思った。小川の本は「仕事に使える、ツイッター超入門」も読んでいて、とても参考になったし、本書もまた、フェイスブックを使うにあたって、すごく参考になる。とりあえず、プロフィールももうすこしきちんとしなきゃな、とか。
 とはいえ、どうかなっていう疑問は、もとをただせば、実は日経サイエンスの3月号だ。具体的には、T・バーナーズ=リーの「ウェブを殺すな」という論文。ウェブにおいて、排他的なサービスが増えることに対する危機感を示す論文を読んだことにある。ミクシィフェイスブックも、クローズドなので、検索エンジンにはひっかかってこない。まあ、フェイスブックのファンページもあるのわかってるけど。
 でも、ぼく自身は、クローズドなものはあまり好きではない。というか、それは価値観の問題だし、クローズドであるべきものもあるとも思う。クローズドなところでしか語れないことも、ぼくにだってあるし、またそうしたところできいてほしい話もあります。それでも、とりあえずブログについてはオープンにしようと思い、ミクシィの外にある。ほんとうに、仲間内の話として、ミクシィの日記を書くことが悪いとは思わないし、そうした安心感は大切なものだとは思うけれども。
 そうしたこととは別に、ネットに置かれた情報は巨大な集合知になっていくと思うし、そうしたとき、排他的なソースは、存在しないようなものなのではないか、とも思うのです。
 でも、まあ、それでいい情報もたくさんあるから、それはそれでいいし、ぼくがツイッターに書き込む「おはようございます」にどれだけの意味があるかと言われたら、もちろんないわけなんだけども。

 という考えの先に、実は、フェイスブックマーケティングに使うことって、正しくないんじゃないかって、なんとなく思えてきました。というか、必要なものが得られるけど、過剰にはならない、というあたりがいいんじゃないかって。
 実は、今日、こんな話を聞いた。あるもつ鍋屋の話。その店は、1日に1件のお客しか受け入れません。ですから、毎日予約でいっぱいになります。それでは儲からないのですが、もつ鍋の材料を通販で販売したところ、1日1000セット売れるようになったということです。安い原価のもつ鍋をけっこうな値段で売るので、儲かっているとか。もちろん、経済が希少性のやりとりだとしたら、その希少性をつくりだしたもつ鍋屋は正しかったのかもしれないけれども、でも、それでいいのだろうか、ということです。
 フェイスブックの排他性の中に希少性を置いたとき、そこでつくりだされる価値が正しいのかどうか。
 ネットの上で情報をやりとりしているとき、それはとにかく儲からないものだと思うし、それでもいいとも思っています。お金ということだけで、豊かさや価値をはかるということだから、どうしても儲からなきゃいけないように思われてしまうんでしょうが、それだけじゃないと思うのです。たぶん、ウィキペディアみたいなものも、「新しい公共」の中に入っていくべきものだと思うのです。

 その上で、フェイスブックが良くないということは思いません。人と人がつながることは大切だし、ミクシィフェイスブックツイッターやブログのようなつながり方があっていいと思います。
 ほんとうに、ミクシィの匿名による関係というのは、居心地がいいし、それはそれでフェイスブックと差別化してもいいものだと思います。学校で、ケータイの使い方みたいな講演をやっていて、プロフに自分の情報をアップするのはやめよう、みたいな話をしている中で、フェイスブックの実名による参加が誰にでも受け入れられるとも思わないし。
 だから、ミクシィは匿名ということを続けるべきだと思うし、それがローカルなものであってもいいとも思っています。
 そんなことも思いました。

 えーと、バラードの「千年紀の民」(東京創元社)でしたね。
 9.11の影響のもとに書かれたということで、空港での爆弾テロから物語が始まります。主人公の元妻が巻き込まれて死んだので、その犯人を捜す、というストーリー。そこで起こっているのは、中産階級の反乱、ということです。
 うまく話すのが、難しいな。金持ちでも貧乏でもない中産階級は、その存在がよく見えないものだったりするのだけど、それは個性のない、共通する価値観の中で生きている、ということにもつながったりしているのだと思います。でも、その価値観が、どこかから否定されてしまう。中産階級が透明な存在から出ていくために革命を起こす。というか、中産階級の存在そのものが、フィクションであったんじゃないか、そんな感じです。
 透明で忘れ去られる存在、それが千年紀の民といったところでしょうか。
 9.11では、多くの中産階級が亡くなりました。そして、毎年、犠牲者の名前がよばれます。でも、戦争の犠牲となった貧乏な人々は名前も忘れ去られます。という現実に対し、バラードの距離というのはどんなものだったのか。といったことも考えたりもするんですけどね。「千年紀の民」で死にゆく名前のない人々は、もっと別な形で登場するのですが。
 って、何が言いたいか、よくわからないですね。

 「新編日本のフェミニズム9 グローバリゼーション」(岩波書店)も読みました。沖縄、朝鮮人二世、従軍慰安婦、性産業のために来日する東南アジア人、フィリピン人花嫁、フェミニズムにおいても、グローバリゼーションはさまざまな影を落としているし、そのことはいくら語っても足りないのだけれども、でも、とりあえず、どんな問題があるのか、その場所を示してくれる本でした。
 もちろん、日本におけるグローバリゼーションのコンテクストで語られるフェミニズムなわけですが、日本以外でもさまざまな問題があるし、そのことも、もちろん9.11にも関係してくるのでしょう。
 その上で、ぼくの中の問題意識のアウトラインを示すと、こんなふうになります。まず、女性の植民地化。女性がどれほど、二流の労働者として扱われてきたか。けれども、グローバリゼーションは、男性すら二流の労働者にしてしまいました。それが非正規雇用の拡大です。フラクタル図形のように、こうした日本国内の細部におけるパターンが、日本と沖縄、日本と朝鮮・韓国、日本と東南アジア、あるいはアメリカと日本という関係の中に、拡大していき、あるいは日本の家庭、在日二世の家庭、国際結婚をした家庭、職場、学校の中にはまりこんでいるということです。
 フラクタル図形を語るのは、たやすくありません。

 今朝は鼻の奥が痛かったし、今はのどが痛い。風邪をひきそうです。いかんですね。

 ということを、2月18日の夜中に書いていたのですが、配信は21日になってしまいました。
 のどは、痛いです。でも、熱は出なかったし、そのほかの症状もないので、大丈夫です。