こちら葛飾区水元公園前通信880

tenshinokuma2018-08-04

 こんばんは
 今回も、業務連絡から。
 月刊BOSSの9月号でも、コラムを引き続き書いています。立ち読みでもしてやってください。

 そろそろハゼ釣りに行きたいって思っているところです。でも、それ以前に、暑いですね。

 早瀬耕の「未必のマクベス」が、とりあえず読ませる力があったので、「グリフォンズ・ガーデン」と「プラネタリウムの外側」(早川書房)も続けて読みました。
 簡単に言うと、読ませる力は「未必のマクベス」の方が上ですが、知的好奇心には対応してくれている、というところです。
 でも、そういうこととは別に、「未必のマクベス」がプラネタリウムの内側的だということが、よくわかりました。
 「未必のマクベス」は読書としてはけっこう楽しいとは思うのですが、小説としての評価は別だと思っています。というのも、この楽しさは、恋愛アドベンチャーゲームと同じものだからです。それが悪いかどうかっていうのはあって、楽しめるからいいんですが、でもそれならゲームでいいじゃないか、ということなんです。
 「グリフォンズ・ガーデン」は、現実の世界とコンピュータの中に構築された世界の話です。別にネタをばらしているわけではなく、裏表紙にあるので、いいでしょう。何だか、クリストファー・プリーストの「ドリームマシン」みたいです。あるいは、イゴール&グリチカ・ボグダノフの「盗まれた記憶」でしょうか。
 コンピュータそのものは、ウイリアム・ギブスンの「カウント・ゼロ」に登場するバイオチップみたいですね。
 ただ、「グリフォンズ・ガーデン」のポイントは、そもそもAIの世界っていうのがどういうものなのか、ということを語ろうとしていること。チューリング・テストとか、世界そのもののリアルさとか。
 実際に、今、自分がいる世界もまた、実はデジタルな世界なんじゃないかって思うことがあります。長さも時間もプランク長より細かくすることはできない、というあたり、デジタルでしょ。別の世界に、このくらいの情報を処理するコンピュータがあるのかもしれません。
 この世界の延長として、「プラネタリウムの外側」があります。ここではもうひとつ、面白いネタが出てくるのですが。拡散したリベンジポルノを回収できるか、というものです。そのために、ウイルスを使う、というわけですが、どう使うのかはさておき。
 ここに「未必のマクベス」を置くと、これが恋愛アドベンチャーゲームということで、すっきりします。ヒロインにチューリング・テストをしたらどうなるんだろう、とか、考えてしまいます。

 いまさらなのですが、大江健三郎の「ヒロシマ・ノート」と「沖縄ノート」(岩波書店)を続けて読みました。
 およそ50年も前の本になるんですね。だから、この50年という時間をどうしても考えてしまいます。
 「ヒロシマ・ノート」は、分裂した反核運動の現場から始まります。もちろん、そのあと、原爆の被災がどのようなものだったか、そこで医師たちが何をしてきたか、何をしているか、そのことが人に対する希望として語られます。けれども、核兵器をめぐる、当時の状況は、冷戦下における身動きのとれない、矛盾に満ちたものだったことがわかります。
 そして、冷戦終了後の現在、なお、世界に核兵器があり、それが冷戦ではなくリージョナルな紛争の中で語られる。そして、冷戦が終わったにもかかわらず、そのことに対して何の知恵もない現在というのを感じます。
 一方、「沖縄ノート」は、大日本帝国の軍隊が沖縄でどのようにふるまったのか、ということを含めた、沖縄がどのような位置にあるのかが語られる一方で、日本への返還が進められていることも語られます。だから、そもそも沖縄が日本に属するものなのかどうか、再度問われます。そして、返還前の沖縄にある核兵器はどうなるのか、ということも。
 そして、当時、本土では沖縄の返還によって沖縄問題が終わるということが語られていたのですが、50年後の現在、終わっていないですね。そして、そのことに気付くことで、大きな無力感におそわれます。
 ジャーナリストの仕事は、それによって多少なりとも世界がましになればいいか、という想いがあるのだと思います。大江のこの2冊も、小説家もまたジャーナリストに含まれるという意味においての、そうした仕事だと思うのです。
 もちろん、これは大江の責任ではありません。こうした本が50年前に書かれ、しかもいまだに版を重ねているにもかかわらず、世界が変わらないということが、やるせない気持ちにさせるのです。

 もっとも、そこには日本人そのものが変わっていないということがあるのかもしれません。
 燐光群の舞台「九月、東京の路上で」を見てきました。場所は下北沢のザ・スズナリ。原作は加藤直樹、作・演出は坂手洋二
 舞台は、現代におけるヘイトスピーチについての描写から始まります。「朝鮮人を殺せ」という言葉の暴力です。そして話題は、95年前にさかのぼります。
 1923年9月1日に関東大震災が起きましたが、このときに、デマにはじまる朝鮮人の虐殺が置きました。現代に生きる世田谷区の13人の市民が、2020年の東京オリンピックに向けて、虐殺の記憶を残すための、植樹をしようと考えます。烏山神社には、ここで虐殺された13人に相当するシイが植えられ、現在4本が残っています。9本を復活させるにあたって、虐殺事件はどのようなものだったのか、関東の現場を訪ねます。
 そこで、虐殺がどのようなものだったのかが語られるのです。
 こうした展開の前半は、フィジカルな舞台と物語を期待する観客には、物足りないかもしれませんが、舞台で行われるNHKスペシャル「関東大震災朝鮮人虐殺の謎を追う」というものだとすると、納得できるものだと思います。
 本当に、当時の人々の同調圧力が暴力となって、横網公園の慰霊碑によれば6000名以上の命が奪われました。そして、命を奪ったのが、一般市民だという事実には、慄然とします。では、警察や軍の関与はなかったのか? どのような関与だったのかというのは、議論のあるところだと思います。
 後半、議員会館前を歩く現代の国会議員である小西ひろゆきとジョギングをしている自衛官とのやりとりは、一点してフィジカルな芝居の世界になります。言うまでもなく、自衛官が小西議員に「国民の敵」とののしった事件です。
 そして、これがヘイトスピーチと重なることで、95年前と何も変わっていない現在が示されます。
 日本人がどれほど同調しやすいかは、脱力するほどです。あえて言えば、その圧力が、この国に今なお死刑制度を存続させているし、くしくも7月にはオウム真理教の元幹部13名の死刑が執行されています。一瞬ですが、舞台でも、これが国家権力による暴力の一端だと言及されます。
 私たちが、いまだにそんな場所にいる、ということは、語られ続けられるべきだと思うのです。時間がたったとき、無力感に襲われるかもしれません。それでも、語っていくべきだと思うのです。

 日本においては、同調と、それから多くの人は自分たちがマジョリティの側にいてマイノリティへの手厚い政策(という幻想)に不平感を持っています。同時に、同調できるマジョリティの側にいたい、そのアイデンティティの中で安心したいと感じています。
 そうしたゆがんだアイデンティティが、杉田水脈の「LGBTは生産性がない」という発言になります。あるいは、東京医科大学が明らかにした入試における女性排除があります。生活保護バッシングもまた同様です。沖縄への差別、アイヌへの差別もあります。日本の児童政策が貧しいのも、児童が社会のマイノリティになっているからだと思います。
 マジョリティが次々とマイノリティを探しては排除していく。自分たちはマイノリティとして排除されることはないと思いつつ、実は多くの人は何らかの形でマイノリティになりかねない不安を持つ。それは、マジョリティという椅子をめぐる椅子取りゲームのようです。そして、椅子はどんどん少なくなり、利権がそこに集中していくという構造です。
 最後は、圧倒的多数がマイノリティとして排除されていくのかもしれません。そこには、例えば将来は貧困な高齢者にならざるを得ない多くの人が含まれます。それを自己責任という言葉で片づけることは簡単でしょう。

 稲田朋美護憲派に対し「憲法教の信者」と言ったことは、意外に本質的なことかもしれません。それは、大きく強い優れた国に所属している、というアイデンティティを持ちたい人が、日本会議に所属している、ということの裏返しだからです。逆に言えば、日本国憲法の、基本的人権という内容は、自分らしくあることの権利を保証しているがゆえに、その自分らしくあることにアイデンティティを持てない人にとっては、ハードルが高いのかもしれません。けれども、そうしたアイデンティティを持っている人は、稲田のような、他者が与えてくれないとアイデンティティを持てない人にとっては、自分たちにとっての異教徒に見えるのでしょう。
 宗教がある面で、人にアイデンティティを与えてくれるだけものだとしたら、それはオウム真理教と変わりません。そうした文脈において、安倍晋三とそのお友達は、というか日本会議の人々ということになるのかもしれませんが、規模こそ違うけれども、相似形であり、やっていることもそう変わらないような気がします。オウム真理教議席を獲得できず疎外されていきましたが、日本会議安倍晋三を通じて権力を握った、という違いでしょうか。
 だから、オウム真理教の元幹部をこの政権が死刑執行したときに、安倍政権のオウム真理教に対する近親憎悪を感じずにはいられないのです。