こちら葛飾区水元公園前通信902

 おはようございます。

 

 無事、白内障の手術は終わり、とりあえず保護眼鏡をかけています。

 1カ月もすれば、室内は眼鏡がいらない生活になります。とはいえ、そう単純でもありません。

 視力はだいたい0.1くらいになるように調整しているのかな。視力検査をすると、1.0くらいは出ているかもしれない。でも、1メートル先でもちょっとぼやけているし。

 で、外出時は眼鏡をかけています。景色はとてもクリアに見えるようになりました。でも、困るのは、電車の中で本を読むとき。手元が見えないので、保護眼鏡に切り替えます。いずれは、ここが眼鏡なしになる範囲。

 で、寝るときは、老眼鏡をかけて読書。

 白内障の手術のあとは、焦点の調節機能がないので、こういうことになるのです。

 それでも、左目は物が二重に見えていたのが、解消されたし、何より強い近視ではないので、物が大きく見えます。これ、コンタクトレンズを入れたときと同じですね。

 しばらくは、抗生物質と炎症防止の目薬も欠かせません。

 

 白内障ついでに、吉行淳之介の「人工水晶体」(講談社文庫)を読んでしまいました。まあ、80年代当時は、白内障の手術そのものがめずらしかったし、医療をめぐる逡巡というのも、喘息や結核や淋病を患ってきた吉行には書きやすかったのかもしれません。

 で、一緒に収録した昔のエッセイ、養生録ですが、しかしまあ、淋病の検査に行って、「大腸菌しかいないよ」と言われ、「そういえば夕べは男娼と寝たんだっけ」とか、なかなかまぬけですね。赤線がなくなって、歩かなくなったんで不健康だとか、今の作家が書いたらダメでしょう。

 

 結核ついでに、正岡子規の「墨汁一滴」とか、そのあたりも読んでみました。死につつあるのに文章は元気というか。俳句の素養がないので、そのあたりはなかなか言いにくいのですが。生活としては、58歳になる老母(って、同じ年齢だよ)や出戻りの妹の律をこきつかって。まあ、しょうがないやつだよな、と。

 

 アンナ・カヴァンの「草地は緑に輝いて」(文遊社)が出たので、読みました。同じ短編集でも「アサイラム・ピース」と違って、カヴァンのいろいろな面が見られます。旅するカヴァン、氷、カフカへのオマージュ、虐げられる娘など。世界の終わりを旅する短編集です。

 しかし、これでカヴァンの翻訳も9冊目なんだよな。サンリオSF文庫がなくなったのに、こんなに読めるとは思わなかった。

 

 アーシュラ・K・ル=グインのエッセイ「暇なんかないわ、大切なことを考えるのに忙しくて」(河出書房新社)も読みました。ル=グイン最後のエッセイ集は、ブログに書いたもの。日常の話から文学の話、老いの話、何より猫のパードの話。軽いようで重い話。老いても若いころと変わらない、わけなんかない、と。老人になればいろいろたいへん。まあ、そうかもしれないけど。でも、そうは言っても、今の60歳は昔の50歳くらいには元気だとは思うけどな。58歳の老母なんて、誰も言わないし。

 本書でル=グインが面白いっていた本の一冊が、「不死細胞ヒーラ、ヘンリエッタ・ラックスの永遠なる人生」で、今はこれを読んでいるところ。確かに面白い。

 

 細胞は不死でもヘンリエッタ・ラックスという人は癌で亡くなっている。

 癌に直面して生きて、そして結局は癌で亡くなったのが、スーザン・ソンタグ。彼女の息子であるディビッド・リーフの「死の海を泳いで」。白血病って診断されてから、わずか9カ月で亡くなるのだけど、その間、最後まで生きることにすがってきたという。

 そこには、隠喩なんてない。

 

 では、新型コロナウイルスによる肺炎って、どうなんだろう。それは、隠喩に向かって進んでいるんじゃないかって、そんな感じがする。

 正直なところ、インフルエンザとリスクの点であまり変わらないんじゃないかって思う。違うのは、特効薬がないことと、ほとんどの人が免疫を持たないこと。

 それはそれで問題ではあるんだけど、そもそも、重症化し亡くなっている人のほとんどは高齢者だったり持病がある人だったり。

 だとしたら、すべきことは、やはりインフルエンザとかわらないはず。そうした季節、高齢者介護施設では面会はできなくなっている。キャリアになりかねない人は高齢者に会わないようにする。今のように、手洗いがあたりまえになってくるだけで、インフルエンザの方もずいぶん抑えられているのではないか。

 中国の武漢の映像が、けっこうインパクトがあったというのもあって、いろいろ怖いイメージがあると思う。でも、そもそも「風邪をひいたら無理しないで休む」ということが、徹底されなければ、重症化する人は出てくる。だから、出社の必要がない人はテレワークでいいとも思う。

 一般的な新型じゃないコロナウイルスは風邪の原因の1つだけど、まあ、それに比べると、新型コロナウイルスはリスクが大きいのかもしれない。

 それにしても、インフルエンザが流行していても、学級閉鎖になる程度なのに、今の状況って、なんだか大げさすぎると思う。過剰反応って言うべきかな。

 隠喩に近づくっていうのは、こういうことだ。

 現在、さまざまなイベントが中止となり、公立の学校も休校になる。あまりの行き当たりばったりさに、批判が集中しているけれど。でも、社会がそもそも感染症のリスクに対応していなかったからこうなる。

 これをインフルエンザと比較するとどうだろう。クラスの何人かが休むことで学級閉鎖になり、さらに学校全体が休校する。同じように考えると、どこの学校でも閉鎖になるくらい患者がいないと合わない。

 リスクを考えて、感染者が出た地域で休校にするのは、わかるんです。でも、感染者がいない地域で休校にする必要があるのかな、とも思う。もちろん、急に休校になって、共働き家庭が困る、というのは、ちょっとずれていて、そもそも子どもが休まなきゃいけなくなったときに、きちんと対応できる社会であるべきなんだとも、思うのですけど。

 それにしても思うのは、するべきことと、する必要のないことの区別がついていないんじゃないかなあって。でもまあ、正直なところ、医療関係者ですら、みんな意見がちがうからなあ。

 隠喩としてのコロナウイルスというのがあるとして、それは「まぬけなダンスを踊らされる」ようなものなのかな、という気がします。

 

 ということはさておき、秋月りすの「OL進化論」の第38巻が出たのには驚きました。連載は続いていたようですが、単行本の刊行が4年も遅れたのはなぜか。どんな事情か気になるところです。

 

 で、かきふらいの「けいおん shaffle 1」も出て、これも買ってしまいました。登場人物も舞台となる学校も一新。でも、放課後ティータイムコピーバンドになるのか?あいかわらず、なかなか演奏しないので、いらいらします。

f:id:tenshinokuma:20200229072429j:plain