こちら葛飾区水元公園前通信784

tenshinokuma2011-12-21

 こんばんは。ということで、今月は宣伝はなしです。この秋はけっこう忙しかったけど、冬になって、ちょっと落ち着きました。それはそれで、さびしいんですけどね。

 先日、右の耳の下あたりのあごに、しこりができたので、皮膚科で切除しました。粉瘤という種類の良性の腫瘍だそうで、めずらしくはないものだそうですが、ほうっておくとすぐに大きくなるので、手術しました。まあ、おできみたいなものなので、あっというまなのですが、困るのは、しばらく頭を洗えないことです。けっこう、気持ち悪いです。
 かくして、今現在、頭がかゆくて気持ち悪い中で、これを書いています。
 うーん、やっぱり頭を洗おうかな。傷口が開かなきゃいいんだけどさ。

 今年のこち水は、これが最後になるかもしれないので、少し、感想めいたこと。
 今年はどういう年かっていうと、どうしても、終りの始まりの年なんじゃないかっていう気がして、鬱々とします。
 地震原発事故については、別途、牛乳通信で書くつもりですから、それはさておいて。
 たとえば、日本の政治について考えただけでも、何も希望が持てないって思います。これは繰り返し言っていることだけど、民主党政権は政権維持のために、どんどんマニフェストから外れていっています。このことが、本当に理解できません。鳩山、菅、野田と交代するごとに、悪くなるような気がします。それは、鳩山、菅に小沢を加えたクリーンナップトリオがみんな故障してしまった野球チームという感じです。けれども、この野球チームが勝てないのは、ファンが足を引っ張っているからだっていう。
 抽象的すぎますね。つまり、自民党政治とは違う政策を求めていたのに、結局同じ政策になってしまうっていう。同じすぎて野党の自民党がまともに批判できなかったりするほど、まぬけな状況です。
 具体的に、どこがって言う必要もないほどです。
 したがって、意思決定はすべて、悪い方向へ、です。TPP、京都議定書不参加、冷温停止状態、その他いろいろ。子ども手当をやめる必要、あります? せめて、今年一年、死刑が執行されていないのが、今のところ、救いです。

 日本だけの話じゃなく、ユーロ危機は本当はもっと直接的なことだと思うのです。つまり、貨幣経済が破綻しているんじゃないかっていうことです。もう、高いリターンの期待できる投資先がなく、地道にお金を稼ぐしか方法がない、そんな経済なんじゃないかって。だから、中沢新一の「日本の大転換」で贈与の経済が主張されることって、わかる気がするんです。貨幣がなくっても、与え、求め、交換すればいいんだって。
 モノじゃなくってもいいんです。情報だったり、コミュニケーションだったり。けっこう、ネットに情報をアップし、それが認められるだけでうれしいっていう人はたくさんいるんじゃないかな。そういうことが、価値がある。ウィキペディアに情報を「贈与」している、そんなことなんじゃないかって。
 だから、ネットのアクセス数がそのまま価値になってしまい、けれどもそれが現金になる途がなかなか見つからない、そんな社会になっているんじゃないかって、思います。

 カダフィビン・ラディン金正日も死んじゃったっていうのは、関係あるのかな。
 彼らの死そのものを、喜ぶべきことだとは思わないのだけども、世界は変わるのかもしれない、という影響ぐらいはあるとも思います。

 そんな時代だから、地方に住んで、畑を耕している人が、いちばん強いかもしれない、とも思わないでもありません。貨幣に価値がないのだったら、命をつなぐためにもっとも必要なものが、もっとも価値があるということですけど。
 地方に住んでいても、ネットにはいくらでもアクセスできるし、アマゾンでも楽天でもいろんなものが買えるし、そういったライフスタイルでいいのかもしれない、とかね。

 っていうと、終りの始まりの、何が終わりかって、貨幣の終りだと思う、ということですね。
 そんなことで、2012年になるのかな。

 萱野稔人の「ナショナリズムは悪か」を読んだのだけれども、ずっと違和感がありました。萱野がずっと言ってきた、国家は唯一暴力を独占する主体だっていうのは、すごくよくわかります。死刑も戦争も、国家が主体で行うのであれば、合法的な殺人になってしまう、という。別に、死刑だけじゃないんですけど。
 でも、萱野の反ナショナリズム批判というのは、ずれているんじゃないかって。かつての左翼の人たちのナショナリズム批判を批判しているんだけども。
 今現在の問題にしてしまえば、TPPに反対しているのに、グローバルな価値観を求めているっていうことみたいな。国家を否定しておいて、でも自由貿易はだめだって。それはおかしいでしょ、というのが萱野の批判。
 たぶん、そうじゃない。ナショナリズムが、こと日本において批判されるのは、しばしば、国家と国土と政府と民族がごっちゃにされ、誰かの都合がいいように使われているから。どうしてそうなるかっていうと、日本は島国であり、この4つの区別がつきにくいから。ぼくは拙速なTPP参加には反対なんだけど、それは政府がその政府の下にある人々を守ってくれないからだ。その政府がどんな政府であろうと、それは人々を守るべきものなのに。北方領土は日本政府が国土だと称しているけれども、それはあまり意味がない。現実的には、そこで漁をする権利が求められるし、自由に行き来できれば不都合はないし、そこに今現在、日本人が住んでいるわけでもない。
 左翼とひとまとめにされた人たちは、「国のために人が死ぬ」戦争の経験を持っている。国と個人の優先順位を逆にさせられた人にとって、ナショナリズムは警戒すべきものだ。
 結局のところ、人はあるレベルの権利を持つためには、政府の下になくてはならないけれども。でも、それが何か?

 パオロ・バチガルビの「ねじまき少女」が面白かったかといえば、うーん、だな。舞台はタイのバンコク、設定もまあ、悪くない、スピードもあるのに、前半はなんだかもったりしていて、まあ、後半の展開は楽しめたんだけどさ。

 ジェフ・ジャービスの「パブリック」。パブリックというのはシェアするっていうこと。その方がいいことがある。そうかもしれない。でも、あちこち監視カメラばかりのところには住みたくないな。
 健康に関する情報は、医者には共有してもらってもいいけど、保険屋には知られたくない。今現在の疾病はしょうがないとして、遺伝情報とかは、そうじゃないだろうって思う。
 それでも、パブリックであることには価値はあるし、そうであればあるほど、貨幣以外の価値が出てくるとも思う。

 堀江敏幸の「回送電車」を読みながら、でも客を乗せない電車にはあと二種類あって、ぼくは試運転が好きだな、とか思ったりもしました。

 えーと、先月末には、高校の同窓会があったのですが、なんだかみんな50歳っていう感じがしなくって、不思議だったな。50歳って、高校生のころ、こんなイメージじゃなかったよな。あと、娘のクラスメイトの母親もいたりして。そうなんだよな、ずっと、高校のときのクラスメイトに似た人がいるよなって思ってたんだけど、そうだったんだ、というのは、かなりびっくりというか、世の中、あなどれないですね、と思いました。