今月頭から、いきなり福田辞任で世間は盛り上がっているようです。次の総裁、(選挙管理)内閣の総理はどうなるのかって。麻生が本命ですが。
北野一の「なぜグローバリゼーションで豊かになれないのか」(ダイヤモンド社)は、ちょっと目からウロコというのがありました。
グローバリズムを批判する本って、けっこうあるし、それはトニ・ネグリでもスーザン・ジョージでも、ほんとうにいろいろあるわけです。G8サミットで運動をリードしていく人たちです。
北野はそことは立場が違います。証券会社のストラジテストなのですから。だから、何となく、金融会社なんて、グローバリゼーションのおかげで儲けているんじゃないか、なんて思われそうです。
でも、そういうわけじゃないんです。北野が指摘するのは、グローバリゼーションによって、株価収益率(PER)もまた、市場の中で一定の数値が求められるようになったということです。すると、上場企業は株式に対してきちんと配当しないと、株価が維持できないということになってしまいます。日本売りが起きるというわけです。
したがって、企業が利益をあげた場合、まず従業員に還元し、そして株主に還元していく、という順序が逆にならざるを得ないということになります。
結局、人件費が抑制されることになり、非正規雇用が増加するというわけです。
ではどうすればいいのか、ということも北野は示しているわけですが、冷静に考えると、PERを向上させる方法は、いろいろとあると思うし、企業がまじめにそういうことを考えてくれればいいとも思うのです。例えば、成長を前提とせず、自社株買いを進めていけば、配当を減らしていくことができます。成長を前提としないということは、豊かさの指標を変えていくということにもなります。物質的な豊かさじゃないでしょ、っていう。
まあ、現実に、豊かさを目指して貧しくなっているのが、今の日本なのですから。
そういう意味で、日本がITへの取組が遅れているというだけの議論には、すごく違和感があるのです。
野口悠紀雄と遠藤諭の「ジェネラルパーパス・テクノロジー」(アスキー新書)は、それが日本の停滞を打破する究極手段だとは思えないのです。
ITが社会を変えたのだから、そこにキャッチアップしようという発想は、別に新しくはないんです。本書はそのITそのものが、実はみんなが考えているものと違う、汎用性のある技術なんだ、という指摘が加わっているというものなんです。
でも、それって、本質的なことなのかどうか、疑問なんです。
最近、ITに関連した本を作っていて、エンタープライズ系のパッケージということなのだけれども。そんなもの、触ったことがない人間が作るってどうなの、というのはあるかもしれないけれども、触ったことないから、かえって感じることって多いんです。
そもそも、エリヤフ・ゴールドラットの「チェンジ・ザ・ルール」(ダイヤモンド社)でも指摘されていたのは、IT化によって、管理しやすくなったのだから、それに合わせて業務プロセスも変えようっていうものでした。
けれども、それは話が逆なのではないか、と思うようになってきたんです。ソフトを入れても、みんなうまく対応できず、作業ばかり増えて、成果があがらないっていう、そういう話をよく聞くわけですが、本来は組織で仕事をしていくにあたって、コミュニケーションは重要なものでしたし、そのことが、企業内部が階層構造を強めていくにしたがって、失われていったものだったのではないか、と思うのです。部下と上司のカベ、部門間の壁、それらは、それぞれの立場の利権を守る、保身的なことによって阻害されてきた。
ITによって、そのことが「取り戻すことができる」ということが、本質なのではないか、と思うのです。CRMのようなソフトを入れると何ができるかというと、最初にまず、「見える化」が実現できるし、それだけで十分な成果なはずなんです。
あたりまえのことを実現する、ということであれば、ITが汎用技術であるというのは、自明のことだとも思うのです。
このことは、以前書いたと思うけれども、マイクロソフトが凋落した理由のひとつは、OSが公共財であるということをきちんと認識していなかったからだと考えています。だからといって、まだLINUXがどこでも使われているというわけではないのですが、オープンソースは増えてきているし、経済誌では「IT産業は公益事業か」というような記事すら載るようになってきています。ビデオ・オン・デマンドのように、ソフトもまたプロバイダーからダウンロードして使うという。ブラウザとかだけではなく、表計算ソフトもスケジュール管理も、そうですよね。
けれども、では、そういうものだけで、日本の停滞を打破できるのかというと、そうではないと思うのです。
ITも含めて、本質はコミュニケーションや組織のあり方を考えること、それを本来のものにしていくということ、利益の配分にしてもそれは同じ、そういうことだと思います。
ITを導入して、それが効率化をもたらすためには、チェンジ・マネジメントということになるのですが、そうではなく、そもそもチェンジ・マネジメントするべきだったものが、ITによってやりやすくなったはずだ、ということだと思います。
日本がアメリカよりも生産性が低いということは、問題かもしれません。けれども、そのことがどのような問題なのか。ITによって生産性が向上するものなのかどうか。そうした指摘がある一方で、日本の労働者の給与が高いということはないと思います。労働分配率は下がる一方だし、非正規雇用は増えるし。そうであれば、問題はITではないのではないか、と思うのです。
そして、ITについてさらに言えば、ITが汎用性ある技術であればあるほど、つまり公益事業化し、あるいはコモディティ化するほど、そこに付加価値をつけることは難しいし、そうであれば、ITによって得られる収益というのは、開発者サイドであれば減っていくだろうし、ユーザーサイドであれば、競争力の源泉にならないということになります。
そうしたことを考えていくと、野口らの議論というのは、ぼくには疑問なのです。
そして、話は福田−麻生に戻ります。
福田は小泉の構造改革路線を否定していましたし、そのことが、8月の内閣改造でも示されていました。バラマキといわれようと、定額減税を進めようとしたり、ということです。
景気後退局面での財政出動というのは、基本的にアリだと思っているし、そもそも、ぼくは大きな政府というものが必要だと思ってもいます。それは、小さな政府として効率化を進めていくこととは対照的なことなんですが、その結果として、日本の生産性が多少下がったところで、むしろ北野が言うように、グローバル経済とのデカップリング(切り離し)によって、中に住む人間がそれなりの豊かさを感じることができればいいと思うのです。
ただし、いちおうクギを刺しておくと、単なるバラマキではなく、どういう日本をつくっていくのか、もっと言えば安心して住める国をつくっていく、そういうビジョンに裏打ちされたバラマキが求められていると思うのです。
民主党の小沢はそういう方針を打ち出し、小泉路線にあった自民党を批判してきたわけですが、福田はそうではなかった。そのやりにくさがあったと思います。
麻生もまた、バラマキ路線だし、この路線ではないと、地方の自民票が戻ってこないということなのですが、その意味で、麻生が本命というのは、よくわかります。
もっとも、総選挙までの内閣なので、そこで何かができるというわけではないでしょうか。