チーズカツ

tenshinokuma2011-09-21


今週のお題「おすすめの本」
 おすすめの本のことは、いろいろ考えた。
 でも、めんどうなので、以下のページへ。
http://homepage3.nifty.com/tenshinokuma/books.htm
 って、安易だよな。
 今、最大限多くの人にすすめるとしたら、アーシュラ・K・ル=グインの西の果て三部作。「ギフト」「ヴォイス」「パワー」だな。
 以下、かつてかいた書評を、コピペ。

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これまでずっと、ル=グウィンの作品を読んできた身としては、ル=グウィンがようやくスタート地点に戻った、そんな感じがしてしまう。そこに戻るということが、一種の成熟、というものなのかもしれない。
西のはての都市国家群がある世界が、この三部作の舞台となる。それぞれ、主人公は異なるが、「ギフト」の主人公は「ヴォイス」にも「パワー」にも登場するなど、時間的にも人物的にもつながりがある。ゲドが一貫した主人公となる「ゲド戦記」とは少し異なる(もっとも、「新しい風」の主人公がゲドかどうかは異論があるが)。特殊な能力こそ出てくるけれども、ファンタジーといっていいものかどうか。
「ギフト」の舞台は北の高地。そこに住む人々は、ギフトと呼ばれる特殊な力を持っている。主人公の少年オレックの力は、見た生き物をただの肉塊に変えてしまう「もどし」という能力。ただし、それがコントロールできず、父によって目を封印される。オレックの住む館を中心とした集落と他の集落との争いがストーリーを引っ張る。
「ヴォイス」の舞台は一転して、南の都市国家。ただし、他国に侵略を受け、支配される状況が続く。主人公のメマーは、侵略者の兵士によって犯された母親が生んだ娘。オレックとその妻グライが登場し、侵略者を懐柔させようとする。メマーは書物の声を聞くことができる。
「パワー」の主人公ガヴィアは中部の都市国家で育った奴隷の少年。彼には未来を「思い出す」能力がある。そして、奴隷とはいえ、教育を受け、多くの本を読み、やがてオレックの本に出会う。
この三部作が、ル=グウィンに対して、最初に述べたような意味での成熟を感じるのは、理由がある。まず、ストーリーテリングだ。ル=グウィンの作品をずっと読んできた人ならわかるだろうが、彼女のストーリーの特徴は、ある地点から別の地点へ移動するということが背骨となっている。「ゲド戦記」も「闇の左手」も、まさにそうした話であった。「なつかしく謎めいて」にいたっては、まさにそのことそのものが、繰り返し語られる連作短編集だったといえる。そのことと比較すると、オレックもメマーも、最後に故郷を出発することになる。ある地点から出て行くということで話が終っているし、むしろ出て行くきっかけとなった事件こそが語られている。その点、ガヴィアは都市国家を逃げ出し、自由になれる地に向かうという点では異なっているのだけれども。
けれども、そのこと以上にこの三部作をつないでいるのは、「書物」である。オレックの本当の能力(ギフト)は、「もどし」などではなく、特殊な能力を持たない母親から聞かされた物語であり、その母親が文字にして残した物語の書物を読むことであり、そして自ら語ることができるというものであった。だからこそ、オレックは目を封印されることで、書物から遠ざけられてしまうことそのものに苦しむ。
メマーは書物を忌まわしいものだと考える侵略者の手から守るために館の中にある秘密の図書館に出入りし、本を読むということそのものを、本の「ヴォイス」を聞く能力を得る。
ガヴィアもまた、書物を通じて教育を受けるが、そこには古い本しかなく、奴隷は奴隷としての平穏な生活を受け入れるという環境しかない。しかし、オレックが書いた新しい物語によって、自由を取り戻していく。
ゲド戦記」と比較すると、ゲドの役割を担うのは、明らかにオレックだ。だが、オレックの力はゲドとは全く異なる。語ることそのものが力なのだから。だから、ル=グウィンは丁寧にも、三冊とも、未来の主人公が過去のことを語る、という体裁をとっている。
そもそも、なぜ人は語ろうとするのだろうか。そして、それが後世に残る本になるようにしようとするのか。だが、その後世に伝えられる語り/書物があることで、人はその書物の到達点から先に進めることができる、ということでもある。そもそも、そのように考えてきたからこそ、ル=グウィン自身が何冊もの本を書いてきたのではなかったか、と思う。新しい世代は新しい書物を自分の出発点とし、自分が語ることで人々の歴史を先に進めることができる、そういうことではないのか。そのことが、どれほど大きなパワーなのかということが、三部作を通して語られる。ル=グウィンのスタート地点の想いに立ち返った、そうした作品である。
それにしても、なぜこのようなプリミティブな作品を書いたのか。思い出すのは、ル=グウィンが、9・11をきっかけとしたアメリカの戦争に強く反対していたということである。戦争では何も解決されない。そのことが、それぞれの作品の中で強く語られる。抑圧された市民や奴隷の蜂起は成功しない。それどころか、「ヴォイス」でも「パワー」でも対立状態は最後まで解決されない。けれども、主人公は語ることを選択している。そのことによって、歴史を進めることでしか、どんなに時間がかかったとしても、それしか解決に向かう道を見ることはないのではないか、というように。もちろん、ル=グウィンの作品がそうした政治的なことだけで回収できるとは思わないし、それこそ、プリミティブな想いが成熟したという、そういうものだとは思うのだけれど。
ある意味では、この作品は、ル=グウィンの祈りにも似ている、そう思う。

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 9・11から、3・11へ、ということではないのだけど、それでも、想うわけだ。

 写真は、今日の昼食。場所は、衆議院第一議員会館