こちら葛飾区水元公園前通信742

tenshinokuma2008-10-22

 アーシュラ・K・ル=グウィンの「西のはて年代記」の三部作、「ギフト」「ヴォイス」「パワー」(いずれも河出書房新社)を立て続けに読みました。そのことは、今月末に出る「トーキングヘッズ叢書No36」で書いたのですが、あらためて、違ったことを。
 ル=グウィンというと、個人的には「闇の左手」を含むハイニッシュ・ユニバースよりも、「ゲド戦記」の方が好きだっていうのはあります。もっと言えば、「空とび猫」が好きなのですが、まあ、それはそれとして。
 この新しい作品は、ル=グウィンなりの図書館ファンタジーとでも呼ぶべきものだと思いました。そして、9.11以降、もっとも必要な施設こそ、図書館なのではないか、と言ったら言い過ぎでしょうか。けれども、バベルの塔が崩れたあと、互いに理解できない人々にとって、図書館が果す役割というのは、とても大きいものなのではないか、そんな祈りがあるような気がしてならないのです。

 「ギフト」は西のはての北部の高地が舞台。主人公の住む村(としか言いようがない)には、ギフトという能力が代々伝わっています。それは動物を手なずける能力など、家(というか、領主)によって異なっています。主人公の能力は、生き物を破壊する能力で、父親も同じ能力を持っていました。けれども、主人公は自分の能力を制御できず、その力を封印するために、目隠しをすることになります。
 主人公の母親は、能力を持たない低地の町から父親に連れてこられました。けれども、低地の人は文字を読むことができます。そこで、主人公は母親から文字を教えられ、物語を聞かされ、自分で語ることを学びます。
 結局、主人公にとって、本当のギフトとは、母親から受け継いだ、物語る能力だということなのです。

 「ヴォイス」では、主人公は一転して、南の都市国家の少女。ただし、その都市は侵略者の支配下にある。侵略者は、文字を嫌い、都市にあった書物はことごとく海に廃棄してしまっています。けれども、主人公の住む館には秘密の図書館があり、そこで少女はたくさんの本を読みます。そこにやってくるのが、「ギフト」の主人公です。そこで物語が大きく動きます。
 侵略者はというと、文字を嫌うだけではなく、タリバーンを思わせるほどに、女性を家の中に閉じ込めておく文化の持ち主です。ですから、兵士はすべて男性。あまりにも、露骨に男性社会なので、ル=グウィンの意図がかえってわからないくらいです。

 「パワー」の主人公は奴隷の少年。奴隷とはいっても、酷使されるというよりも、自分についての決定権が失われているという状態です。ですから、そのことを除けば、まあ苦しい生活ではないし、戦争があれば、奴隷には戦闘に参加させないという約束になっていますから、そういう苦労はないわけですが。そこで、主人公は同じく奴隷である教師から、読むことを学びます。けれども、そこには新しい本はありません。自分の決定権が失われているという不合理さには、気づかないようになっているのです。そうした中、「ギフト」の主人公によって書かれた本に出会います。それは、禁断の新しい本でした。
 けれども、戦争があり、主人公は運命に翻弄されながら、旅を続け、やがて「ギフト」「ヴォイス」の主人公たちに出会うのですが。

 3作とも、一貫しているのは、未来の主人公が過去のことを書いているというスタイルになっていることです。書くことによって、記録が残り、後世の人はそこから多くのことを学ぶことができる。そのことによって、人は進歩していく。
 ル=グウィンの書いていることは、そういう単純なことなのではないかと思うのです。文化人類学で研究されるフォークロアと、現代人が書く本との間に、どれだけの違いがあるというのか。本質的には同じだし、そのことによって、進んできた。そもそも、ル=グウィンが「ゲド戦記」を書き始めたきっかけは、図書館で「指輪物語」を借りて読んだということだったわけですし。

 ル=グウィンにしては、シンプルなメッセージだと思います。「ゲド戦記」はもっと哲学的なテーマでした。ゲドは影を失い、傷を負います。そして、傷は永遠に癒えることはありません。けれども、傷と引き換えに、大賢人となるきっかけをつかみます。テナーはゲドによって救い出され、何かを取り戻します。けれども、すべてを取り戻すことはできません。生と死の国の境を越える冒険もまた、世界を戻すことにはならないのです。ですが、それでもどうにか、ゲドはテナーによって何かを取り戻しますし、人間と竜が共存する世界は決定的に壊れたまま、平穏を取り戻します。

 「西のはて年代記」は、竜は出てこないし、派手な特殊能力(魔法)も出てこないし、そういう意味では地味なファンタジーということになります。でも、人は本質的に語る生き物であるという、そのことが性善説性悪説を越えて、なお人間に対する信頼になっているというところに、この三部作のすごさがあるのではないか、と思いました。
 というわけで、9月はずうっと、この本を読んでいたというわけです。あんまり話題になっていないけど、おすすめ、です。

 9月は福田辞任でスタートし、当時の新聞の論調では今度の日曜日には総選挙の投票だったはずですが、いまだに解散していません。今のところ、11月30日という説が有力だということですが、どうなることやら。
 どっちにしても、議席を減らす選挙なので、解散しにくいだろうな、とは思います。それに、麻生内閣は選挙管理内閣のはずなのに、メディアはそれなりに期待するようなしないようなことを報道するので、ますますそういう雰囲気から遠ざかってしまうという。どうにかならんのか、と思ったりもします。
 麻生のバラマキ政策というのが、いろいろ言われていますが、バラマキをやめた小泉改革のおかげで地方が疲弊してしまったということの反動はあるようです。
 では、バラマキをすれば景気が良くなるかというと、そうではなく、小泉改革が評価されたのは、非効率なバラマキが政府の財政を疲弊されたという批判からでした。
 それでも、今となっては、まだバラマキ政策の方がましだった、ということになるのでしょう。ぼくもそう思います。でも、その政策はやはり、将来のハイパーインフレリスクを背負うということになるわけですが。
 たぶん、いくつかの政策をきちんと組み合わせないと、見えてこないのだと思います。どの政策1つをとっても、それだけで決定的に悪くも良くもならない。というか、1つだけ実行したところで、かえって悪くなるだけ、というところではないでしょうか。

 非効率なバラマキが問題であり、その既得権益が政治家の腐敗の温床となっているのだとしたら、あたりまえですが、効率的なバラマキを考えればいいわけです。それを考えるのが、政府の手に余るのであれば、財源ごと地方にまわしてしまえばいいわけです。地方分権とか言いつつ、十分な予算の移譲をしていないわけだから、そりゃダメだろう、というのが現状なのですから。
 効率的なバラマキというと、どういう地域社会をつくっていくのか、というビジョンが前提として必要です。例えば、高齢化社会でも住みやすい街づくりや、低炭素社会の実現、といったところでしょうか。けれども、そうすると、例えば福祉予算が圧倒的に不足しているということになります。
 そこで、消費税ということになるわけですが、本当に安心して老後を過ごせる社会にするのだとすれば、増税は受け入れるものだと思っています。また、所得税累進課税法人税率についても、もっと税をとってもいいと思うのです。
 消費税に対する反対が多いのは、単に政府が信用されていないからだと思うのです。

 本当に、将来に向けて、破綻する要素がこれだけあるのに、放置されているということのほうが、よほど問題なのです。
 ワーキングプアの問題は、彼らが高齢化していくほど、生活保護受給者が増えるということにつながります。彼らがホームレスになれば済む問題ではないのです。
 日本企業が、グローバル化によって、一定の配当が求められるようになり、人件費をカットせざるを得なくなってしまった、というのが北野一の主張でした。そうだとしたら、会社の時価総額を下げる工夫が必要になるでしょう。藤巻健史が指摘するように、円安に誘導していくということも必要かもしれません。そのことは、インフレともつながってきます。ですが、ゆるやかなインフレは財政赤字を軽くする効果があります。何より、景気がいいときはゆるやかなインフレになるわけです。
 円安になると、石油の輸入価格が上がることになるわけですが、それは、低炭素社会を国内技術でつくっていくきっかけになります。何より、相対的に人件費が安くなる、ということが重要です。
 まあ、多少は貧しくなったと感じる人はけっこういるでしょう。ですが、国内農産物などは相対的に安くなるし。
 本当に、ワーキングプアというのは、不等な話だと思っていて、企業は社会における将来の社会保障費などを、勝手に自分の収入にしている、その意味では、誤解を恐れずに言えば、外部不経済だったりする、あるいは市場の失敗と同じ性質のものだと思うのです。そこに目をつぶるというのは、国内に第三世界をつくるような話だと思うのです。結婚して子供を育てられない社会というのは、続かない、ということでもあるのですが、まあ、それはちょっと見方が違うんですけどね。

 バラマキというのは、ほんとうにバラマキであっても、インフレ方向に圧力をかけるかもしれません。それだけでは困るんですけどね。
 でも、せっせとお札を印刷して、海外の金融機関にお金を貸し付けて、円安になったころに回収すれば、まあ、それはそれでいいのかもしれません。

 ということとはあまり関係なく、松尾匡の「裸の王様の経済学」(東洋経済新報社)なんぞを読んだりしていました。マルクス主義ゲーム理論で読み解いたりして、なるほど、と思ったりもします。社会が大きく変革するには、100年ぐらいのタイムスパンで見ないと、と言われても、じゃあ自分の子供どころか、孫でようやく、じゃないか、とも思ってしまうのですが。
 でもまあ、お金が目的になっちゃうから、バブルが起きるんだよな、とも思ったりもしました。

 なんだか、ひさしぶりですが、先月からずーっと、「営業のマネジメント」をテーマにした本を書いているのです。下書きこそだいたいできたのですが、どうにも、構成が気に入らなくって、まだまだ楽にはなりません。深夜のマクドで仕事、という生活が続きそうです。
 でも、その本よりもまず、「トーキングヘッズ」の36号を買って下さいね。特集は「胸ペッタン」です。

 なお、写真はかなり昔に廃業したゆたか湯。よく行っていた武の湯と休日がかぶっていたので、ほとんど行かなかったな。
 水元公園の近くにあります。
 お湯は少し熱めだったしな。