物語論で読めない保坂和志と尾田栄一郎

tenshinokuma2009-08-13

 大塚英志の本を読んだ。
 「スターウォーズ」と同じような構造だけが、村上の、たとえば「羊をめぐる冒険」にあるし、構造が共有化されているから世界で受け入れられているというのは、まあ、そうなのかもしれない。
 という分析なのだけれども、村上と宮崎をつなぐところに、「ゲド戦記」が置いてあったりする。ここでは、宮崎悟郎監督の映画ということになるのだけれども、そこで父の宮崎は近親憎悪を見てしまったこと、そのことが、村上におけるオウム真理教のジャンクな物語に対する近親憎悪に比較されている。

 たぶん、そうなのかもしれない。

 でも、ぼくは違う見方をしてしまう。
 「1Q84」がこれまでと同じ物語構造というのは、その通りなのだけれど、もうひとつ作家としてずっとやってきたことは、説明抜きのものをはめこんでいるということ。「1Q84」で言えば、空気さなぎやリトルピープルのことは、きちんと説明されていない。
 こうした謎を残しておくことで、読者の深読みの余地をたくさんつくっておくことは悪いことではないと思う。それどころか、発売まもない時点で、3冊もの読解本まで出ている。

 同じ方法を用いているのが、「新世紀エヴァンゲリオン」だった。そのリメイク「新世紀ヱヴァンゲリヲン」が、序、破ときて、次がQだというのは、偶然なのかもしれないけれども、出来すぎている。まあ、「1Q84」には綾波も出てくるしね。
 そして、庵野秀明は(そして押井守もだけれども)、宮崎の義理の息子なのではないか、とも思うわけだ。
 ということを、きちんと論じていくと、また違う読みができると思った。

 ということはさておいて、ぼくと大塚の違いということもよくわかる本だった。
 大塚の問題意識には、近代以降、大きな物語を求めてしまう人々の姿があり、それが例えば国家という物語に回収されるネトウヨだったりする、という危機感にある。一方で、大塚はこうしたものを満たしてこなかったポストモダンに対しては冷淡だ。したがって、近代を推し進めるしかない、という。
 たぶん、それは間違っていない。けれども、違う方法に立ちたい、とぼくは思う。
 その意味で、ぼくはポストモダンに立ってしまうんだろう、ということだ。
 なぜそこにこだわってしまうかというと、「ワンピース」という作品が、きちんと受け入れられているからだ。この作品に限らず、多くのマンガがアナーキーな立場で描かれている。
 「ワンピース」を物語論で読んでいくと、読めないことはない。確かに、主人公は出立するし、賢者にも出会う。聖杯探求の物語といえばその通りだ。敵役として政府があり海軍がある。けれども、それらは裏返すことができる。
 ワンピースは、世界のすべてだというが、世界を救うようなものではない。ひょっとしたら、世界を破壊するものなのかもしれないけれども、そのことはルフィがそれを求めるモチベーションにはなっていない。もっとプライベートなものだ。
 適役が政府であり、主人公は国家といったものから逸脱した存在だということも指摘できる。
 主人公の祖父は海軍中将だけれど、父は革命家だったりする。血のつながっていない兄は実は海賊王の息子だ。
 ということはさておいて、「ワンピース」が示すものって、あくまでもプライベートな物語だということは重要だ。プライベートであれば、そこに回収されることはない。
 (ということは、ネトウヨはきっと、少年ジャンプを読むことができないのかもしれない)
 というようなことを、小説にするとどうなるかっていうと、物語という構造をまったく持たない保坂和志という存在がある。何となく、村上と保坂は顔が似ているというか、川本三郎と三兄弟みたいなイメージがあるけれど、それはそれとして。
 だとしたら、保坂の小説って、きっと海外では受け入れられないかもしれないな、とも思う。

 けれども、ぼくはその立場に立つ、ということなのだ。

 知り合いが、たまたま大塚と保坂のそれぞれの小説の書き方本を読んで、大塚の方が実用的だと評したことがあった。その知り合いは、実際に小説を書いてもいるのだけれども。
 それはそうかもしれない。しっかりとした骨組みっていうのは、スキルを身に付ければなんとかなるし。保坂は逆に、今までないものを書くことに意味を見出そうとしているわけだ。
 多分、保坂の本を読んで新人賞をとるのは、難しいと思うけれど、でもそれはそれ。今までないから書くというのは、ものすごく意味あることだとも思う。

 ということが、ポストモダンなのではないか、と思うわけだ。

 写真は、東京電力の新エネルギーパークの展示。太陽光発電は日本は世界一だったのだけれど、その座から転落したので、上から「トップクラス」という紙が貼ってある。こうなったのは、もちろん東京電力のせいではない。この部分に関しては、むしろ被害者(ささやかなことだけれど)だ。