こちら葛飾区水元公園前通信707

 世の中で、正義と思われていることに、ものすごく違和感がある。もっと言えば、怒っている。山口県光市の母子殺人事件の裁判に関する反応に対して、9条を守ろうと運動する護憲派に対してである。

 光市の殺人事件については、説明の必要がないだろう。高等裁の判決に対し、最高裁が差し戻しを命じ、再審をやり直している。今回は死刑判決が下される確率が高いという。
 この裁判に対し「こんなヤツはさっさと殺してほしいというような書きこみが、SNSのニュースに関連する日記の中にもごろごろと出てくる。このことがかえって不気味でしょうがない。批判は弁護士にも向けられる。もちろん、あおっているメディアは、より大きな問題だ。繰り返し遺族である被害者の夫であり父親である人物のコメントを放映する。
 だが、被告は犯行当時、18歳だった。第一に「少年」であったということを認識すべきだ。もちろん、18歳が少年なのかどうか、ということは議論されていい。でも、「少年」であるがゆえに、進んで「犯行」を認め、「無期懲役」で落ちつくという戦略が、それが正しいかどうかは別にして、あってもおかしくはなかった。それが「死刑」が現実性を持つことによって、「犯行」のコンテクストをまったく変え、「ひょっとしたらそれが事実かもしれない」という展開になっていくということは、不自然なことではない。被告が「ドラえもん」を信じていたというのは、にわかには信じられないかもしれない。けれども、だからこそ「少年」の犯罪であり、「更正」の可能性があるのであれば、「少年」として守られるべき存在でもある、というのはあってもいいはずだ。
 「被告」の「少年」が決して恵まれた環境で育ったというわけではないのであれば、その結果としての「犯行」に対する「処分」として何が適当なのかは、冷静に考える必要がある。

 遺族である男性は、繰り返しその映像がメディアで流される。その姿を見るたびに、それはかわいそうだとは思うけれども、同時に「なぜいまだに癒されることがないのだろうか」という不幸をも見ることになる。それは、被告を死刑にすればすむということではないし、そのことはこの男性も認めていることなのだが。
 そして、遺族はかわいそうだとは思う。けれども、被告が死刑になったら、やはりそこにあらたな遺族ができることになる。この「少年」の例に限らず、死刑囚であっても親や子や兄弟やあるいは配偶者が生きているかもしれない。何の罪もない親族を悲しませる理由は、何もない。では、「死刑」になるような人には、肉親はいない、とでも言うのだろうか。仮にそうであったとしたら、それは社会的な不対称が放置されている、というだけのことだ。
 逆に被害者が親族のいないホームレスの人だったら、被告に対して誰もが「死刑」を求めただろうか。以前、ホームレスの人が少年らによって殺害される事件があった。このとき、「こんな少年たちは刑務所に閉じ込めておけ」という主張が見られただろうか?

 被告への「悪意」をあおるメディア、「正義」の向こう側で「早く死刑にしてしまえ」と合唱するブログ。だが、そこにいる人々は、自ら手を汚すことなく、人の命を奪っている、ということにどれほど気付いているのだろうか。それは、薬害問題を引き起こしてきた旧厚生省の役人と少しも変わらないと思うのだが、どうだろう。
 事件の当事者ではない人々にとって、最も重要なことは、被告を死刑にするということではなく、今後起こるであろう犯罪から守られるということなのだ。そして、事件に直面したとき、そこから少しでも救われることだ。だが、そこには少しも目が向けられない。
 光市の事件の遺族である男性が痛々しいのは、実は事件から少しも救われていないということだ。だが、そのことには少しも目を向けられていない。

 この事件の裁判に関しては、第一に少しでも何が現実だったのかが明らかになること、そのきっかけができることが重要だと思う。第二に、未来がある、ということは将来にわたって「社会的に人の役に立つ可能性を持つ」人間の命を安易に奪うべきではない、と思う。今週の週刊金曜日において、無期懲役で服役中の人がこの事件の「被告」と交流をはじめたという記事が掲載されている。少なくとも、人はそのぐらいの可能性は持っているものだ。そうした可能性を、安易に奪うということそのものが、社会的な損失ですらある。

 ということで、憲法第9条を守ろうという人たちへの怒りに話が及ぶ。

 今回の参議院議員選挙の争点は、本質的には「憲法改正」だという見方がある。新社会党の人たちは9条を守る会というような名称で立候補するという。
 何を今更、である。

 まず、憲法を争点にすべき選挙は、前回の衆議院選挙であった。このとき、「郵政民営化」ばかりがクローズアップされていた。そして誰もがこれを支持し、衆議院では自民党が圧倒的多数となり、改憲への道筋ができてしまった。でも、それは9条だけの問題ではなかった。教育基本法の改正であり、少年法の改正である。
 「郵政民営化」で問われたことというのは、いくつかある。全国の郵便局が持っている利権の構造を解体すべきだ、という声があった。また、郵便貯金財政投融資などによって無駄遣いされていたという事実もある。アメリカの要請という要素もあった。
 だが、もう一つ目を向けるべきことは、郵政を民営化することにより、不採算事業所が閉鎖されるということだ。郵便、金融、保険というサービスについて、全国どこにでもある郵便局がユニバーサルサービスを保証していたことを忘れてはならない。また、貯金が全額守られるが、上限は1000万円であり、この金額であればどこの銀行でも守られるレベルだ。国鉄が民営化された結果、赤字路線がどんどん廃止され、交通におけるユニバーサルサービスが崩壊したことを忘れるべきではない。
 そして、大切なことは、好き好んで僻地に住むのでもない限り、ある程度のユニバーサルサービスは保証されるべきだし、そのくらいの権利があってもいい、ということだ。

 実は、憲法第9条を守ろうとすればするほど、改正に近づくのではないか、と見ている。確かに第9条は世界遺産にしてもいい内容だと思う。変えるべきではない、と思う。
 もちろん解釈改憲によって、自衛隊ができ、やがてはイラクにまで派兵している。
 けれども、憲法で最も守らなくてはいけない部分は、第三章に書かれた多くの内容だと思う。すなわち「国民の権利」だ。ここに男女平等や健康で文化的な生活を営む権利などが記されている。これこそが、日本を新しい時代に押し上げていった思想なのではなかったか、と思う。そして、この内容を、一方でいまだに現実のものとすることができずにいるということにも目を向けなければならない。同時に、これが「国民」という別の法律によって定められる人を対象にした「権利」にとどまっており、さらに成長させるべきものでもある。
 憲法に「権利」が示されているにもかかわらず、この憲法に違反する、あるいはその可能性があることがしばしば行なわれており、あるものは法律にすらなっている。
 300日問題をはじめとする、離婚における男女不平等がそうであり、嫡出子と非嫡出子の区別もまた同様だ。
 何より、光市の事件に関連して言えば、メディアによる弁護人バッシングは、憲法第32条<裁判を受ける権利>に抵触する(「週刊金曜日」6月15日号、山口正紀「人権とメディア」における指摘)。
 さらに遡れば、12年前、オウム真理教事件があったとき、その後オウム信者は引越しをしたときに、引越し先では住民票が受理されず、したがって信者の子供は学校に行くことができなかった。そこには麻原の子どもも含まれる。
 たとえ「信者」であったとしても、「国民」であり、罪を犯していない以上、当然の権利であるものが、行政や地域住民の手によって奪われていた。
 だが、「イラク派兵」が憲法違反であると主張する人たちが、人権が守られない事件に対してどれほどまで「憲法違反」であるという主張をしただろう。
 そして、おそらくは「死刑制度」そのものもまた、憲法違反の疑いがある、と見ている。麻原の子どもに関して言えば、罪もない子どもたちの父親を奪う権利を、誰が持っているというのだろうか。

 こうした人権問題を考えるとき、人権を大切にしない人々が欠落させているものは、「他者への想像力」だ。このことは以前も書いたと思うけれど。死刑制度は国が合法的に犯す殺人であるが、その死刑囚に対する想像力、その遺族に対する想像力は欠落していないだろうか。教祖や幹部が起こした事件によって放り出された信者に対する想像力は欠落していないだろうか。
 それは、どの家庭も両親がいて子供が育っているというわけではないという想像力、どの親も子どもを育てることができるわけではないという想像力、離婚と別居が別のものだという想像力、あらゆるマイノリティに対する想像力の欠落だと思う。
 だが、憲法第三章のいくつもの条文は、「国民」にこうした想像力を求めているものでもある。男性の女性に対する想像力、「被告」に対する想像力、子どもへの想像力。
 憲法第9条は、侵略戦争で犠牲になった人たちへの想像力を求めるものではないか、と考えている。あらゆる戦争は、何の罪もない人々を犠牲にする。憲法第三章を通じて実現しようとしていることが土台としてあってはじめて、憲法第二章第9条が生きてくる。
 そう考えると、守るべきなのは、第9条ではないということになりはしないか。
 そして、第三章が解釈改憲同様に、踏みにじられてきた。しかも、第9条と決定的に違うのは、多くの国民が踏みにじったという点において、事は深刻である。だが、このことに目を向けずして、「第9条を守ろう」というスローガンは、あまりにも虚しくないだろいうか。

 こうした「第9条」に凝り固まった「護憲」が、第三章の解釈改憲を許している。それゆえに、教育基本法が改正されたのだから。
 今度の参議院議員選挙でも、多くの候補が「第9条は変えない」と発言している。だが、それがよって立つ第三章はどうなのだろう。第9条を支える思想が、成長するどころか、なしくずしに壊されていけば、その先に第9条の改正があることは目に見えている。

 第三章の問題は「国民」の権利についてだということだ。「国民」ではない人までは対象にしていない。だが、この「国民」というのがいつか、改憲によって外されることがあれば、それはとてもすばらしいことなのではないか、と思っている。
 日本は意外に鎖国的なところがある。国籍は血統主義だし、難民はなかなか受け入れない。「国民」ではない「他者」への想像力は少しも育っていないのだ。
 こうしたことが、例えば「北朝鮮の国民」への想像力の欠如につながっている。第9条を改正しようという根拠の一つは、仮想敵国としての北朝鮮だ。だが、犠牲になるのは何の罪もない北朝鮮国民である。そしてそこには実は、まだいるかもしれない拉致された日本人や、あるいはそれよりも圧倒的多数の拉致された韓国人がいるということすら、気付かれない。すでに、このことは証明されている。かつて食糧支援を中止すべきだという合唱が起きたとき、飢えるのはこうした人々だという想像力を、多くの日本人は持っていなかった。

 もちろん、護憲派とよばれる人々が、仮にオウム真理教事件のときに、住民票を受理しないのは憲法違反だ、という運動を起こしたとして、すぐに共感は得られなかったと思う。けれども、日本人の圧倒的多数が死刑制度を支持しているということも知っている。けれども、そこに目を塞いでいて、憲法など守れるわけがない。

 ぼくは、今後の参議院議員選挙の争点は「年金」でいい、と思っている。「年金制度」が安心できる制度となってはじめて、ぼくたちは誰もが老後に「健康で文化的な生活」ができるようになるのだから。そこから、人がどんな権利を持っており、それが保証されるのか、ということを考えていってもいいと思う。

 ということで、これはおまけだけれど、環境問題にとりくむ企業への違和感。

 こういうことだ。環境保全に熱心であり、省エネにもなる自動車を作っているような企業が、一方で下請けをこき使い、正社員雇用を削減して絶望工場にしている、というのはどうなんだろう、ということだ。
 あるいは、環境活動に熱心なチェーンストアが、正社員を解雇してパートを増やし、あまつさえ24時間営業にして労働強化するというのは、いかがなものか。
 持続可能な社会にするために、環境問題に取り組んでいるのに、持続可能な社会になるような雇用をしていない、ということについて、とても違和感があるのだ。
 仕事柄、環境問題に接することは多いし、そのとりくみをブランド化したり、あるいはグリーン購入を推進したりすることには大きな意義がある。
 けれども、だからこそ、健全な雇用もまた、CSRの一環としてあるべきだし、ブランド化すべきだ。
 実は、コムスンの事件を通じて、このことをとても強く感じる。もし、要介護状態になったとき、安心して生活できる収入を持った人に世話をしてもらいたいと思わないだろうか。そうでないと、安心して何もまかせられないのではないか、と思うのだが。

 気候変動問題がリアルになってくることで、企業もとりあえずせっせと取り組むようになってきた。けれども、消費者がワーキングプアへの想像力が欠落したままだったら、それは解決しないだろう。エコカーが絶望工場で生産されているのだとしたら、やはりそれは乗りたくないのではないだろうか。