こちら葛飾区水元公園前通信878

tenshinokuma2018-07-07

 こんにちは。
 1年の半分が過ぎてしまいました。何となく、今年はまだ始まったばかりのような感じなのですが。月日がたつのは速いですね。

 今月からしばらくはトレッキングはおやすみ。ということで、先日、ひさしぶりに葉山に釣りに行きました。もう息子は一緒に行ってくれないので、一人で。
 芝崎の海岸は、防波堤工事をしていたり、カップ麺の自動販売機がレストランごとなくなっていたり。商業施設もできるみたいですが、工事はまだ。でも、海はあいかわらずきれいでした。
 今回、ターゲットはカサゴテトラポットのすきまを攻めるということで。でも、前半は、いままでにないほどキヌバリを釣りました。まあ、結果、カサゴを2匹釣り上げて、満足したわけですが、その間、ベラもけっこう釣りました。
 カサゴは煮付け、キヌバリは唐揚げ、ベラのうちキュウセンは塩焼き、あとは三枚におろしててんぷら。おいしくいただきました。

 またそのうち、行きたいと思っています。誰か一緒に行きませんか?

 前回、Swing Out Sisterの新作「Almost Persuaded」が出ると書きましたが、早速、聴きました。
 なんか、よくできた、ムードたっぷりの音楽、になっていました。正直に言えば、「Get in Touch with Yourself」あたりまでの、元気な音楽が好きだし、コリーンの声もちょっと年齢を感じさせないわけでもないのですが。それでも、最近の作品と比べると、端正な感じがしました。

 それにしても、アーティストにとって、どのように年齢をとっていくのかって、大切なことなんだなあって思います。
 Basiaのように、より深くジャズボーカルに入っていくということもあるし、Bananaramaのように、昔のままを再現するということもあります。

 という話をしてしまうのも、Yesというバンドが、結成50周年を迎え、2つのバンドに分裂して、それぞれツアーをしているということになっているからです。
 本家Yesと元祖Yesみたいな感じですね。
 ELPは2人が故人だし、Pink Ploydはラストアルバムを出したし。King Crimsonは、現在8人編成で活動中だけど、Robert Philipがいることが必要条件。その点、Yesは、Jon Andersonが必要条件ではなく、そもそもバンドのロゴの権利はSteve Howeが持っているし、とか、そんなこんな。
 まあ、マニアックな話ではありますが、予想外の50周年だなあと、しみじみと思います。

 さて、7月6日に、松本智津夫麻原彰晃)以下、オウム真理教の幹部7名の死刑が執行されました。
 自分の中でも、意外なほど、喪失感があります。
 もちろん、ぼくは死刑そのものに反対しているということはあります。でも、それだけではないのです。
 まず、オウム真理教の事件そのものが、決して遠い話ではなかったこと。当時、ぼくは都営浅草線で東銀座まで通勤していたのですが、これが日比谷線だったらまきこまれていたと思います。
 そして、この事件に対する人々の反応を通じて、日本の民主主義が壊れていくことを目の当たりにしたように感じていました。微罪逮捕が繰り返されました。また、「何の罪もない」信者の転入が自治体に拒否され、その子どもたちは「義務教育」を受けることができない状態になりました。
 圧倒的多数の人々が、日本国憲法で保障されていることを拒否したのです。「憲法第9条を守ろう」と言っている人たちの圧倒的多数が、このことに目をつぶりました。そこに日本の護憲運動の底の浅さが見えると思います。
 当時、ぼくはそのしっぺ返しがくると思っていましたが、事実それは起こりました。共産党員がチラシを集合住宅のポストに入れただけで、「住居不法侵入」で逮捕されています。

 オウム真理教事件は、村上春樹のおかげで、「やみくろ」とも重なって見えます。村上の「1Q84」では、麻原をモデルにした人物が登場すます。この作品を通じて、麻原は、多少は身近な存在にもなっているのかもしれません。
 けれども、もっと大事なことは、実際にオウム真理教事件の「やみくろ」というものが何だったのか、ということです。なぜ彼らはテロを引き起こしたのか。そこには、社会の側にも何らかの要因があるはずです。
 少なくとも、彼らは社会から疎外されていたと思うのです。それが、正当な理由ではないかもしれないにせよ。そうでなくて、信者を集めることはできなかったと思います。
 では、それは何だったのでしょうか。

 たぶん、そのことは、当人しか語れなかったのだと思います。
 また、罪を償うということがありますが、その償い方として、真実を語るということは、あると思うのです。また、刑罰そのものを犯罪抑止力にしていくためには、そうした責任を負わせることの方が、死刑を執行するよりもはるかに重要なことだとも思うのです。
 しかし、死刑は執行され、語られなかったことは永久に語られる機会が失われました。
 このことは、この社会が抱えている問題を明らかにする上でも、極めて大きな損失だと思っています。
 死刑の執行によって、残ったのは、人と人の間の憎しみであり悲しみでしかないと思います。誰も救われることなく。

 死刑を執行してしまえるほど、憎しみを正当化するこの国には、あまり希望がないなあと思うところもあります。そのことと、いまだに安倍晋三が総理大臣でいることとの間に、関係がないとは思えないのです。

 いとうせいこうの「小説禁止令に賛同する」は、そんな絶望的な未来が描かれています。舞台は未来、作者をモデルとする主人公が、小説禁止令に賛同し、獄中でエッセイを書いているという設定です。という小説です。
 エッセイの中で、さまざまな小説が批判されます。例えば、夏目漱石。あるいは中上健二。
 けれども、フィクションが禁止されるというのはどういうことなのか。
 いとうは、現在が戦前であるという認識を持って、フィクションではなく、つくられた現実だけが認められる社会を描きます。
 正直、こっているわりにはストレートすぎるのですが。

 山尾悠子の「飛ぶ孔雀」も読みました。あいかわらず、謎の世界です。京都っぽい場所で、でも変な人たちがうろうろしていて、と。1つの世界を舞台にした断章がつながるような、多分、長編なのですが。うまく説明できないですね、これ。

 青弓社の本も続けて読みました。
 「ひとはなぜ乳房を求めるのか」は、ピンクリボン批判が印象に残っています。乳房をめぐる5人の論文をまとめたものなのですが、乳がんだけが、独立した運動になっています。検診をうけることを促進するのは、悪いことではありません。けれども、そこでは、乳房が社会のものだというニュアンスでポスターが制作されていきます。自身のものではないのです。
 ここには、「(赤ちゃんには)やっぱりお母さんの方がいい」とか「せめて子供は3人は産んで」とか、そんなこととつながっているということなのでしょう。

 とまあ、今日はそんなところで。