こちら葛飾区水元公園前通信809

tenshinokuma2013-11-21

 おひさしぶりです。
 ということで、今回も宣伝です。トーキングヘッズ叢書No.56「男の徴/女の徴」が刊行されました。すでに書店に並んでいますので、今回もぜひともお買い上げのほど、よろしくお願いいたします。
 っていうことで、来月もまた宣伝が入ると思いますが。

 そろそろ冬が近づいてきました。風邪などをひいたりはしていませんでしょうか。
 インフルエンザには、加湿器が効果的です。寝室の空気は、とにかく乾燥させないといいと思います。結露したって、インフルエンザよりはましだ、と。

 たまには、この冬、おすすめの小説など。
 イチオシは、ジャン・エシュノーズの「稲妻」(近代文藝社)です。エシュノーズは、わりと好きな作家なのですが、この作品は実在の人物をモデルにした三部作の、三作目です。一作目は「ラヴェル」でした。二作目が未訳ですが、ザトペックだったかな。そして「稲妻」のモデルは、ニコラ・テスラ。ただし、かなりフィクションが混じっているので、別の名前になっていますが。天才発明家で、エジソンと異なり、交流電力を活用することを提案し、ウエスチングハウスの成長に貢献した、ということになるのかな。エジソンと違って、経営者タイプではないので、そのあたりがどんな人生になるのか、エシュノーズの筆がさえているっていうか。なんか、エジソンも登場するのですが、イメージとしてはユニクロの柳井社長みたいな雰囲気で笑ってしまいます。悪役ですね。
 それにしても、エシュノーズは、何かに取りつかれて、第三者的にはどうかと思うけど、本人は納得していそうな人生を、淡々と書く人ですね。

 知人に進められて、藤野可織の「おはなしして子ちゃん」(講談社)も読みました。芥川賞作家だっていうこととは関係なしに、なかなか素敵なホラー短編集でした。
 いいなって思ったのは、物理的にあり得ない話、というのではなく、内宇宙的にありそうな話、っていうことです。表題作のおはなしして子ちゃんは、ホルマリン漬けの猿の標本なのです。そんなものが、おはなしをせがむということは普通はあり得ないのですが、それがおはなしをせがむということを感じ取ってしまうことはあるだろうな、というのが内宇宙の話、といえばいいでしょうか。そういった、自分の内側にホラーを見出す、しかもその光景が、すごく絵になる気がする、そんな意味で、素敵なホラーだと思いました。

 保坂和志の「未明の闘争」(講談社)も読みました。好きな作家だけれど、たぶんあわない人は多いだろうな、と思い、すすめるのはためらわれるのですが。
 保坂はここで、小島信夫の「残光」みたいな書き方をしています。ある時点から追想に進み、そこからまた別の追想の場面へと続く。現在はいつなのか、ということがまったくないので。でも、ヌーボー・ロマンじゃないので、何が書いてあるかはわかるので、ご安心を。
 この小説は、死んだ友人が道路を歩いているという光景からはじまり、病気の猫の死で終わります。保坂の「世界を肯定する哲学」では、自分が死んでも世界はある、ということが述べられていました。この小説では、誰もが死ぬ、けれども世界は続いていくし、残された者は生きていく、そういうことが書かれているのだと思いました。そうした哲学が、感覚として伝わってくる、そういうものです。
 でも、そういうことを感じとることが、多くの人にとって楽しいのかどうか、と思うと、ぼくはこの小説は好きだけれども、すすめるのはためらわれるのです。

 小説ではないけれども、辺見庸の「いま語りえぬことのために」(毎日新聞社)は、少なくとも最初の講演の部分は、読んでほしいな、とは思います。
 この本を読んでいて、ずっと、山本太郎園遊会天皇に手紙を渡したことを考えていました。
 参議院議員山本太郎天皇に手紙を渡すという行為は、一般的に人が人に手紙を渡す行為だと考えると、何も問題はありません。渡してはいけないという規則もありません。まあでも、みんながそんなことをしたら混乱するので、しないだけのことですが。
 このことを、何か大きくまちがったことをしたように感じている人に対し、違和感を覚えます。
 ただ、天皇に福島の状況を訴える手紙を届けたところで、天皇は何の実行力もありません。それでも天皇に知ってもらうという事実を残すことは、政治的利用と指摘されたら、否定できないとは思います。保守派の政治家にとって、天皇が知ることとなった問題を解決できていない、ということが残ります。
 ところで、さらに違和感を持ったのは、というかむしろ本質的なことというのは、宮内庁の職員が山本太郎の手紙を天皇に届けなかったことです。これは、よく考えると、すごく変なことだということがわかります。
 どういうことかというと、天皇は自分に宛てられた手紙を、自分の意思とは関係なく、受け取っていない、ということです。もちろん、天皇がそんな手紙は受け取らない、と考えているのであれば話は別ですが、少なくとも報道の範囲では、宮内庁の判断として渡していないということになります。
 もちろん、後に山本太郎のところに刃物入りの手紙が届いたように、誰のものともわからない危ない手紙を天皇に届けないというのであれば、話はわかります。しかし、国会議員として素性の知れた人の手紙が届けられないということは、そこに受取人の意思が存在していないという点で、極めて異常なことです。
 同じように、自分に宛てられた手紙を自由に受け取れない人が、他にもいます。死刑囚、とりわけ確定死刑囚です。
 辺見はこの本の中で、三菱重工連続爆破事件の犯人で確定死刑囚、大道寺将司に送った手紙に同封した犬の写真が届かないこと、大道寺からの手紙のかなりの部分が黒く塗りつぶされていたことを紹介しています。犬の写真は鑑識にまわされたのちに、届いたということです。塗りつぶされたところは、俳句か何かだろうし、問題ある文章とも思えないともいいます。さらに、大道寺は句集「棺一基」で第6回一行詩大賞を受賞したのですが、主催者からの原稿依頼の手紙も届かなかったということです。
 この日本において、死刑囚と天皇だけが、同じように基本的な人間としての権利が行使できないということになります。また、何か意見(とりわけ政治的主張)は、外に伝わることは制限されています。何を考えているのか、生きた人間としての存在が見えなくなっている、そういった人です。
 一方は、日本国憲法に規定された、象徴です。もう一方は、いつ殺されてもおかしくない、隔離された人間です。
 象徴はその人格とは別に存在できるものです。だから、天皇に何をしようと、それは政治的に利用可能なツールとして存在しているものです。したがって、天皇の、というか皇族の政治利用はいけないとされていますが、そうしたこととは裏腹に、政治利用のためのツールとしてしか存在していません。
 もっとも、本当にいけないのは、天皇などの皇族に政治的な立場を表明させることであり、それこそ当面は禁じられるべき政治利用であると思うのですが。
 そして、確定死刑囚もまた、政治的に利用されます。その姿が見えないことで、その人に対する人々の想像力が奪われた中で、政治的利用として死刑が執行される。また、死刑制度の存続は、そのことによって人々の不満がそこに向い、解消されるものとしてあります。
 想像力が及ばないところで、何かが進む。死刑囚に対し、多くの人は死んで償うのをあたりまえのように感じるのかもしれませんが、そのことによってその人の、人ととしての存在の内面もまた、失われていく、そのことが正しいのかどうか。その人には知人がいて、家族もいるかもしれない、そうした人にとっての喪失は、どのようにとらえればいいのか。
 こうしたことに対する想像力の欠如が、現在の、景気回復に目がくらんだアベノミクス信者の姿とだぶります。
 秘密保護法案は、当然反対だけれども、多くの人も反対だという。けれども、まともな想像力があれば、そのくらいの法律は成立させるような政権だということがわかったはずだし、だったら最初から支持しなければいいと思うのですが。反対してほしいけれども、同時に多くの人には、安倍晋三という人に対して、その程度の想像力しらはたらかせられなかったことを恥じて欲しいな、とも思いますが。
 とまあ、そんなことを思いながら、この本を読んでいました。

 結局、今見ている深夜アニメは「キルラキル」と「勇者になれなかった俺はしぶしぶ就職を決意しました」ぐらいだったりします。見損なってしまったのもありそうな気もしますし、「京騒戯画」は録画したまま見ていないのですが。
 で、「勇しぶ」は、何だか、「正社員になれなかった俺はしぶしぶ派遣ではたらく決意をしました」みたいなタイトルみたいで、痛いな、などと思ってしまいます。

 ではまた。