こちら葛飾区水元公園前通信811

tenshinokuma2013-12-27

 こんちは、です。
 今日は、宣伝はなしです。

 写真は、先日飲んだ、洛中の純米ひやおろし
 これは、佐々木蔵ノ介の実家のお酒。
 普通においしくいただきました。お酒らしいお酒です。

 先日は、「劇場版仮面ライダー鎧武&ウィザード」を子どもたちと見てきました。
 なかなか面白かったです。前半、ウィザード編は、コヨミの話っていうか、ラストはちょっと泣けました。コヨミが残した指輪を、どこに置くのか、それを求めてずっとさまよってきて、そこに置くのか、という。結局は、本編ではあまり描かれなかった、ラブストーリーだったんだな、とか。喪失と希望の物語でもあるんですね。「俺が最後の希望だ」っていうセリフは、好きです。
 一転して、鎧武編は、半ば強引に、パラレルワールドの戦国時代、仮面ライダーが武将に仕え、天下統一を目指している世界。これがとてもチープなつくりになっていて、突っ込みどころ満載というか。ただただ感心してしまいます。信長に秀吉に、家康がこれですか、という。
 残念だったのは、ドーナツ屋はんぐり〜の店長と洋菓子店「シャルモン」の店長のツーショットがなかったこと。次回の映画では、ぜひ。

 森達也の「「自分の子どもが殺されても同じことが言えるのか」と叫ぶ人に訊きたい」(ダイヤモンド社)を読んでいて、あらためて問題意識というか、感じていることがすごく似ているな、と思いました。
 森は、地下鉄サリン事件で日本社会が変質したと指摘するのだけれども、ぼくもそれは思うのです。
 森はこの事件以降、日本には危機意識が蔓延し、あたりまえのように監視カメラが増えたり、危機をあおる政治家が支持されたり、そういうことを指摘します。この本は、ダイヤモンド社の広報誌での「リアル共同幻想論」という連載が元になっているのですが、国家という共同幻想に人々が埋没している日本の悪化する一方の現状を指摘しています。この文脈で、死刑廃止や領土問題などを論じます。想像力のない善意がいかにダメか。タイトルにあるように、死刑廃止というと、「被害者の人権は」という指摘がなされるけれども、そう言う人の想像力は加害者には及んでいないし、被害者の家族を考えるのであれば、加害者の家族のことも考えるべきだろうし。誰も住んでいない尖閣諸島を守ることで、人が死ぬのなんて、ばかみたいじゃないか、とか。

 ぼくにとって、地下鉄サリン事件というのは、オウム真理教以上に、日本人そのものが劣化したきっかけだと思っています。以前も書いたことだけれども、二つ、指摘しておきます。
 1つは、この事件を解決するために、繰り返された、別件逮捕です。結果として、実行犯の検挙につながるという成果があっただけに、ますますやっかいなのですが。でも、この点は、当時、きちんと指摘されるべきだったと思うのです。はっきりした証拠がない信者に対し、ささやかな不法侵入くらいで逮捕し、取り調べを通じて、再逮捕するという方法が、適切だったのかどうか。
 そもそも、自己保身のために証拠がなくても自白を強要し、有罪にしたてる、そういう日本の警察・検察に対し、オウム信者についてだけは正当化されるということはないと思うのです。やはり、時間をかけてでも、正当な捜査を通じて、実行犯を逮捕すべきだったと思います。
 このことが、後に、共産党員がマンションでチラシを配布したときに、住居不法侵入で逮捕されるという事件につながっています。こんな微罪で逮捕される、そういう社会になってしまったと思います。
 もう1つは、足立区などで、オウム信者の住民票を受理せず、その子供が小学校に転校することができなかったこと。葛飾区でも同じでした。不動産屋のカウンターには、オウム信者の転入を許さないという小さなのぼりが置かれていました。
 でも、本質的に、何の罪もない人を拒否することはできませんし、子どもが義務教育を受ける権利は保障されるべきだと思います。それは、日本国内のマジョリティが、日本国憲法で保障された基本的人権を裏切ったということでした。
 特定秘密保護法が可決成立してしまったのですが、というか可決したから言うのですが、この法律に反対していた人たちの大多数に対しては、どの口で反対っていうんだよ、と言いたい気持ちがずっとありました。

 特定秘密保護法に関連して、もう少し言います。この法律に対し、「知る権利」がおかされるというようなぬるいことを言う人間は、信用しません。ばかなんじゃないか、というくらいに。
 この法律の問題は、ぼくたちが「政府から身を守る方法」を失うということなんです。政府は、ぼくたちの知らないところで、ぼくたちに不都合なことを決めることができる。じゃまする人は、この法律をたてに、逮捕することができる。そういうことなんです。
 すぐにそこまでの運用はしないでしょう。でも、何年かして、気付くと、そういう運用がされている。そういうものだと思います。
 日本人の大多数は、絶望的なほどに忘れやすい人たちです。1年前の総選挙で、自民党が圧勝しました。安倍首相を選んだということです。でも、かつての安倍政権が何をしてきたのか、安倍晋三大日本帝国を取り戻すことにしか興味がないことは、よく考えればわかることです。アベノミクスなんて、エコノミストの入れ知恵のレベルでしかありません。だから、エコノミストにはつくれない成長戦略は、あいかわらず中身がありません。
 安倍首相にするということは、かつて、教育基本法が変えられたように、法制度を戦前に戻していくということです。

 こんな日本社会に対して、世界に対して、それでも森は、手遅れにならないように、書いてきた、ということです。

 ということで、この本の姉妹編というべき、「クラウド 増殖する悪意」(dZERO)も買ってしまいました。

 この秋から冬にかけて、けっこう小説を読みました。
 イチオシは、エリック・ファーユの「長崎」(水声社)です。
 フランスの小説ですが、舞台は長崎。一人暮らしの男性の家に、知らない間にホームレスの女性が住みついていたというストーリーなのですが。福岡であった実話が元だということですが、それを長崎にしたのは、かつて出島があり、原爆の被災地であるという、そういう中で、人にとって自分のための場所っていうのが、当然のようにあるべき、そういったことなんですが。

 ジャン=フィリップ・トゥーサンの「マリーについての本当のこと」(講談社)。「愛する」「逃げる」の続編、とでもいうのかな。よりを戻す話、と言ってしまうとみもふたもないのですが、困難な状況、困難な風景の中で、本当に必要なものを見つける、そういうビタースィートな話、とでも言えばいいのかな。トゥーサンの小説を読むと、自分の気持ちを持っていくところがなくて、困ります。

 いとうせいこうの「存在しない小説」(講談社)も読みました。正直なところ、「想像ラジオ」ほどじゃなかったです。というか、よくわからなかった。存在しない作家が書いた存在しない小説を存在しない翻訳家が翻訳し、結果として存在している、っていうことは何なのかな、と。
 存在しない小説は、存在するラテンアメリカや存在する中国の小説をモデルに書かれていて。けれども、その存在する世界は、日本にいるぼくたちの想像がなかなかおよばない世界で。見えないものは、しばしば、存在しないもののように扱われてしまう、ということなんでしょうか。
 そういえば、森は、9.11に関連して、WTCで死んだ人以上に、対テロといわれた戦争で、米軍兵士が亡くなり、それよりも二桁も多いイラクアフガニスタンの民間人が亡くなっている。そこに正義があるのかな、という指摘。
 ということで言えば、福島第一もだんだん存在しないものになりつつあり、避難している人も忘れられているようになっている、ということなのかも。
 そうでもなければ、平然と原発再稼働なんてできないですから、とでも言っておけばいいのでしょうか。

 そういえば、トーキングヘッズ叢書の前号で、書こうと思っていて書けなかったのが、「げんしけん」の高坂くんと波戸くんのことでした。同じ女装でも、天然の高坂くんと腐女子になりたい波戸くんは、ぜんぜん違うな、という、そういうことを書こうと思っていたんですけど。別の機会に。
 それはともかく、「げんしけん15巻 二代目の6」は、どんどんテンションが高くなってきて、面白いです。矢島さんがかっこいいという、そういう巻でした。

 そんなわけで、来年もよろしくおねがいしますです。