が経過した。
20年前の3月20日、ぼくは転職して1年がたったころ。
都営浅草線東銀座駅を降りると、日比谷線が異様なことになっていた。
本当に、東銀座に行くのに、日比谷線を使っていなかったので、巻き込まれずにすんだということはある。
その日は、会社内で、ほぼ一日中、原子力担当のIさんが、一日中ラジオを聴いていた。
落ち着かない日だった。
ぼくは、これはオウム真理教が引き起こした事件だと、そのように断定されるだろうと思った。
同時に、すぐに証拠が見つからず、捜査は簡単ではないとも思った。
しかし、警視庁はオウム真理教幹部に対して次々と別件逮捕していき、確証をつかんでいった。
この事件の被害者には申し訳ないと思うけれども、繰り返される別件逮捕の方が、よほど不気味だった。
たぶん、そんなことをしなくても、ていねいな捜査で時間をかければ、逮捕にたどりつくはずだ。けれども、警察はそんなことをしなかった。
誰も、別件逮捕の問題を指摘しなかった、そのことも気持ちが悪かった。
さらに、社会は反オウム真理教のカラーに染まっていく。そりゃ、信者が近くにいたら、気が気じゃないだろう。
けれども、オウム真理教の信者に対して、住民票の不受理、さらには信者の子供は小中学校への入学が拒否された。
信者は信者というだけで、法的に問われる罪はない。原則的に、住民票の拒否はできないはずだ。さらに、子供が学校に通うことを妨げなきゃいけない理由もない。
少なくとも、義務教育として決められている以上は、その子供たちにも教育を受ける権利があるはずだ。
しかし、そうした権利に対して、多くの人は目をつぶってしまった。それは、多くの日本人が、日本国憲法に反する行為を認めてしまったということだ。
自治体や学校が、信者を受け入れるには、覚悟は必要だろうし、それ以上に住民の安全を確保する取り組みも必要だったとは思う。けれども、それはポジティブに日本国憲法を守っていくコストだと考えるべきものだ。
数年をたたずして、憲法を守らなかったつけを支払わなくてはならなくなった。
それが、共産党の党員がちらしをマンションに配布したときに、住居不法侵入で逮捕されたという事件だ。
そして、現在、日本国憲法は、さらにないがしろにされている。憲法第9条を守ろうという人はいても、そもそも基本的人権が守られていないということは、あまり顧みられていない。
地下鉄サリン事件、オウム真理教事件がもたらしたものは、日本に住む人々の劣化だったと思う。
オウム真理教の幹部、地下鉄サリン事件の実行犯の多くは判決が下され、また最近逮捕された人については裁判が行われている。
近く、麻原の死刑が執行されるのではないか、という噂もある。
けれども、それで溜飲を下げる人はいるのかもしれないけれども、そのことで社会のリスクが減ることはない。それどころか、この事件がどういったものだったのか、それを考えるための「ピース」を失うことになる。
そのピースを持つことは、ぼくたちの権利としてある。死刑は、ぼくたちの権利を奪うものでもある。
けれども、そうした権利についても、多くの人が考えることはない。
そして、権利のことを考えなければ、その延長で、憲法第9条だって、改正されてしまうのだと思う。
ぼくにとっての地下鉄サリン事件とは、そういうものだ。