こちら葛飾区水元公園前通信820

tenshinokuma2014-08-20

 こんにちはです。
 この間の台風11号が通過するまでは、かなり暑い日が続いていたのではないでしょうか。
 最近は、ちょっと涼しくなった気がします。といっても、比較の問題であって、十分に暑いんですけどね。

 今回も、トーキングヘッズ叢書の宣伝から。No.59「ストレンジペット」が出ました。書店にはすでに並んでいるので、ぜひともお買い上げのほど、よろしくお願いいたします。

 さて、台風の直後、11日から13日にかけて、伊豆大島に行ってきました。
 いくつか理由はあるんですけれども、その理由の一つは、災害復興の宿泊券が使えたこと。2泊までで一人あたり一泊3000円の補助が、都から出ます。4人で2泊だと、2万4000円。これはなかなかお得だな、ということで。
 もっとも、往復のジェットホイルが片道9300円なので、これがなかなか痛いです。普通の客船という選択もあったのですが、結果からすると、10日の夜行は欠航になったので、それはそれで幸運だったのかも。
 大島では、レンタサイクルで博物館をまわったり、三原山の山頂で雨に降られたりしました。レンタサイクルで島を回るというのは、ぼくとしてはけっこう楽しかったんですけど。かみさんも子どもたちもギブアップ状態でした。鍛えてないやつらです。
 三原山の山頂の風景は、なかなかワイルドな感じで良かったんですけどね。これも残念。
 で、最終日は息子と岡田港で釣り。かみさんと娘は波浮港へ。
 大島での釣りは、イマイチでした。下物を釣るのが好きなのですが、エサはオキアミしかなくって。たぶん、イソメだったらもっと釣れたんだろうけど。周囲の人は、サビキでアジをけっこう釣っていたな。大島に行ったもう一つの理由は、息子の大物釣りということだったのですが、その目的は果たせませんでした。
 こちらの釣果は、唯一の大物でニザダイ、他に小さいマダイ、メジナ、カジカ、カサゴ、イサキなど。ニザダイだけ刺身、あとは塩焼きにしていただきました。マダイとイサキがおいしかったです。ニザダイの刺身も美味しいと思うんですけど、娘に言わせると微妙な味。あら汁にいたっては、豚汁みたいな味、とか。確かに脂っこかったな。
 島では大島牛乳を飲み、大島牛乳アイスを食べ、最後には大島牛乳プリンまで。いや、白身のヅケを握った島寿司とか、アシタバの天ぷらとか、そういうのもいただきました。
 御神火温泉は、正直なところ、イマイチでした。露天風呂はないし(隣に水着着用の浜の湯という露天風呂があるのですが)、ロッカーは100円入れると返ってこない有料のものだし。カランは少ないし。でもまあ、温泉に入れるだけ、いいか。

 釣りといえば、7月末には葉山に行きました。ここでは、本命のカワハギについては、息子が3匹、ぼくが1匹という結果です。他にもベラとかゴンズイとか。カワハギと一番大きなベラ(キュウセン)だけ刺身にし、あとは唐揚げにして、おいしくいただきました。

 8月といえば、終戦記念日ですか。
 あらためて、この言葉を考えてしまいます。「週刊金曜日」などは“終戦”ではなく“敗戦”という言葉を使っています。何が違うのだろうか、と。
 ぼく自身は、あえて“終戦”でいいのではないか、とは思っています。
 安倍晋三以下自民党は「日本を取り戻す」というようなキャッチフレーズを使っていました。取り戻す日本というのは何なのか、といえば、大日本帝国という国でしょうか。彼らの憲法草案が、いわゆる明治憲法に似ているということが指摘されています。
 そして、取り戻すということは、敗戦ということがあったからこそ、そこから取り戻すことにつながるのではないか、と思うのです。
 敗戦ということは、太平洋戦争の結果を主体的に受け止めるということです。その上で、連続している国家体制において、大日本帝国アイデンティティを取り戻すことができる。
 けれども、終戦というときには、太平洋戦争の結果を主体的に受け止めていないのではないかと思うのです。多くの日本人にとって、それは何かあやまった政治体制の結果、巻き込まれてしまった戦争であり、そこから解放された、ポジティブな意味での終戦というニュアンスがあります。
 終戦という言葉を使いたいというのは、大日本帝国という国に終止符を打った、という意味を持たせたいと思うからです。終戦を境に、日本の国の名称は、他でもない、極めてシンプルな「日本」になりました。民主共和国とか合衆国とか連合王国とか帝国とか公国とか連邦とかそういうものはいっさいつかない国名です。
 憲法も新しくなりました。第9条ばかりがクローズアップされる日本国憲法ですが、むしろ“主権在民”ということが、国のガバナンスのありかたとして、大きな変化だったと思います。このことが根拠となって、日本に民主主義が根付こうとしていました。
 けれども、結果として、終戦は中途半端なものでした。天皇制は存続し、昭和という元号が使い続けられました。さらに、これは歴史学者の犯罪的な過ちだと思うのですが、昭和時代という時代区分を残してしまいました。そうである以上、8月15日は終戦ではなく敗戦の日であるべきです。
 結局、敗戦という言葉を使わないことにより、1945年以前の歴史から多くのことが免責されてしまいました。けれども、敗戦による大きな変化を受け入れきれず、スティグマとなりました。そのごまかしが、終戦という言葉なのだと思います。

 ぼくが終戦記念日という言い方でいいと思っているのは、その言葉を通じて、1945年を境に、別の時代区分として、歴史をきちんと区切るということとトレードオフということです。
 第二次安倍政権の現在が、太平洋戦争に向かう時代によく似ているということを、いろいろな人が指摘します。また、そうした現在をつくってしまったことに対し、安倍政権に投票し、あるいは棄権し、あるいは十分にそうしたリスクを語りきれなかった人に、責任があるとは思います。そうだとしたら、太平洋戦争の責任についても、そうした社会をつくってしまった当時の日本人に責任があるのではないか、ということは容易に想像できます。
 それでも、終戦という言葉とともに、新しい時代に向かうのであれば、それはそれでいいのではないか。過去の過ちを歴史を検証していく上で相対化し、きちんと評価できればいいのではないか。そう思うのです。

 それにしても、終戦記念日が8月15日だというのは、重要な歴史の偶然なのだとも思います。それとも、意図的だったのでしょうか。
 旧盆の中に、この日があります。死者を悼み、思い出す日の中に、終戦記念日がある。だからこそ、死者と向き合うことで、戦争の悲劇を、その過ちを振り返ることができていたのではないか、と思います。

 けれども、その一方で、日本国憲法の、とりわけ民主主義につながる、基本的人権といったような内容は、いまだにきちんと理解されていないと思います。そのことが、簡単に排他主義につながり、容易に第9条の戦争放棄の、この内容の放棄につながっているのだと思います。
 そうした意味では、やはり8月15日は終戦記念日ではなく、敗戦の日だということなのだとも思います。

 チャールズ・ユウの「SF的な宇宙で安全に暮らすっていうこと」(早川書房)のことは、まだ書いていませんでしたね。
 これは、面白かったです。というか、ぼくの好みの、変なテイストの小説。サンリオSF文庫でもいいかもしれないくらい。
 主人公はタイムマシンで移動する中、未来の自分に出会い、殺してしまう。そこで渡されたのが、未来の自分が書いた「SF的な宇宙で・・・」。そして、時間の移動の中で、父親の姿を知り、という感じで家族小説にもなっていく。恋人はアンドロイド。
 説明するのは難しいんだけど。SF的な宇宙っていうのは、タイムマシンがある世界、って思えばいい。そうした世界では、自分の人生を俯瞰できてしまう。その中で、あらためて人が生きる意味を見出す、とでも書けばいいのかな。タイムマシンのある世界での人生って、奇妙だし、そもそも人生にもう一つの次元が増えてしまうわけだから。未来は容易に変わる。そんなところで、安全に暮らすのも、楽じゃないです。って、何が安全なんだろう。

 レイ・ヴクサヴィッチの「月の部屋で会いましょう」(東京創元社)も、好み。変なテイストのすごく短い話がたくさん入っていて、サンリオSF文庫でもおかしくない。ドナルド・バーセルミかって。
 しょっぱなから、身体の皮膚が宇宙服になってしまう奇病が流行り、患者はやがて宇宙に飛んで行ってしまう、そんな話なのだから。けれども、そんな話が、妙にセンチメンタルに語られます。結局のところ、世の中、不条理なことがたくさんあって、そんなことにつきあっていると、センチメンタルになってしまいます、みたいに。

 カレン・ラッセルの「狼少女たちの聖ルーシー寮」(河出書房新社)も、好み。変なテイストの短編は10篇入っています。昔だったらサンリオSF文庫から出ていたかも。今なら、ケリー・リンクみたいに早川でもいいのかもしれないけど。訳者が松田青子という、これもぼくの好み。
 タイトル作は狼に育てられた少女が人間世界に戻れるように教育されていく様子を狼少女の視点から語ったものだし、あるいはワニバナナ園、じゃなかった、ワニの見世物を亡くなった母親のかわりに働く少女の話とか。
 一貫しているのは、家族の話ということ。困難さをかかえながら、家族のそれぞれのつながりというのが、個人にとってどんな意味があるのか、語られています。あたりまえの家族小説ではないところに、結びつきの強さともろさが描けているっていうのかな。むき出しの、そんな感情が、なかなかすてきな本です。

 とまあ、そんな小説を読んでいたこの夏でした。
 今はというと、いまさらですが、バリントン・ベイリーの「カエアンの聖衣」(早川書房)を読んでいます。何となく「キルラキル」見ておいて、これを読んでいないっていうのは、いけないのではないか、ということで。

 今週土曜日(23日)は、鹿島で釣り、の予定です。何をねらうかは未定。