こちら葛飾区水元公園前通信837

tenshinokuma2015-11-27

 もう11月です。それも、もうすぐ終わりに近いという。
 何といったらいいか。1年、あっという間ですね、というのもありふれていて。
 いかんですね。
 
 あいかわらず、いろんなことがカオス状態のまま、過ぎていきます。
 フリーランスなので、いつ仕事がくるかわからないし。
 先月、水戸に行ったときには、ほぼ乗ることがないだろうと思っていた常磐線の特急にも乗ったしな。
 そんなこんなです。

 先日は、久々に、息子と釣りに行きました。
 いつもの場所。今回は、テトラポットの間にいるカサゴを狙ってみました。カサゴだけではなく、タカノハダイも釣れました。カワハギとともに刺身でおいしくいただきました。というか、ようやく、魚の皮をとる技術を身に着けたので。
 息子は大きめのベラ(キュウセン)を釣ったので、これも刺身に。でも、ベラの刺身は子供たちには不評だったな。まあ、もっちりして、ちょっとざらっとした舌触りは、好き好きかも。ぼくは、悪くないと思いましたが。
 まあ、そんなところです。今年の釣りは、これで終わりかな。また来年の初夏までは、釣りはお休みです。

 今月、読んだ本はというと、辺見庸の「1★9★3★7」(金曜日)、白井聡の「「戦後」の墓碑銘」(金曜日)、岡野八代の「戦争に抗する」(岩波書店)、島田雅彦の「優しいサヨクの復活」(PHP新書)といったところです。

 パリでテロ事件があった直後に、「戦争に抗する」を読み始めたのは、奇遇というか。というのも、本書は、2011年9月11日の同時多発テロに対して、米国がアフガニスタン対テロ戦争を開始。そして、多くの知識人がこの米国の対応を評価する中で、ジュディス・バトラーがこれを強く批判していた。そのことから始まる本だったからです。
 パリのテロ事件に対し、もちろん悼む気持ちはありました。でも、正直なところ、フェイスブックの写真をトリコロールにすることには違和感がありました。もちろん、同時期に、ベイルートだったかな、そこでもテロ事件があったし、フランスは直後にシリアを空爆しています。そうした暴力の連鎖の中で、パリでの死者だけを悼む気持ちにはなれませんでした。
 バトラーもまた、そうした暴力の連鎖が、何も解決しないことを指摘します。
 けれども、「戦争に抗する」が批判する中心の部分は、安倍政権であり、自民党改憲というより憲法破壊案です。
 岡野は、立憲民主主義の立脚点に立ち戻り、そもそも自民党の草案が、本来は個人が主権を持つべきであるところが、国家が主役になっているという、前時代的なものであると指摘します。もっと言えば、自民党の案は、国民に対して国家の奴隷になれ、といっているようなものでしょうか。
 とはいえ、はっとした岡野の指摘は、「人権論は、画期的な哲学上の大発見である。なぜなら、この考え方は、わたしたちの直感とは大きく異なる考え方だからである」ということ。その先、岡野は、個人は国家より優先するという。そして、そのことが、「個人主義」として自民党周辺の政治家から批判されてしまうということでもあります。
 わたしたちの直感は、個人よりも国家、あるいは家や会社などの組織が優先されてしまう社会になじんではいないでしょうか。そのことが、日本国憲法で示された「基本的人権」に対する理解をさまたげているのかもしれません。
 別に、集団的自衛権だけの話ではないのです。例えば、東京オリンピックを開催するだけの予算があれば、トップアスリートが活躍する場をつくるかわりに、多くの人がスポーツに親しむ場がつくれるはずなんです。
 岡野は、この本の中で、従軍慰安婦問題における正義について論じ、ジェンダー・フリー・バッシングを批判します。
 戦争に抗すること。テロ事件に対して必要なことは、ケアであること。バトラーが指摘するまでもなく、アフガニスタンイラクでの戦争で、9.11以上に多くの人が亡くなっています。そして、どんなに防衛力を強化しても、9.11は防ぐことができませんでした。軍隊は他国を攻めることはできても、自国を守ることはできていません。
 もっと言えば、尖閣諸島という小さな島を守ることができたとしても、福島を守ることはできませんでした。

 「1★9★3★7」は、1937年を起点とする作品です。
 1937年は、南京大虐殺があった年です。当時従軍していた堀田善衛は「時間」という小説を書きました。それは、中国人の目から見た、南京大虐殺、だそうです。手元に、今月復刊された、岩波現代文庫版があるのですが、まだ読んでいません。
 辺見は、この1937年から、日本は何も変わっていないと指摘します。堀田が書いたこと、あるいは武田泰淳が書いたこと。逆に批判されるのは、小津安二郎がついに映画の中で描かなかったもの。小津もまた、兵士として召集され、戦地にいて、日本軍の残虐な行為を知りえたところにいたにもかかわらず、映画の中では、何かノスタルジーのような形で流れ去っていくものでしかない、という。
 あるいは、戦犯として東京裁判の被告となってもおかしくない昭和天皇が、何の責任も負わないまま、戦後も天皇として存在しつづけること。戦争責任についても、そんな文学的なことはわからない、とした応じないこと。
 何も変わらないまま、現在の安倍政権がある、ということです。
 それから、辺見の父のことも繰り返し語られます。兵士として戦場に行ったのですが、そこで残虐な行為の加害者であったことは、ついに語らなかった父を、辺見は批判します。そして、死ぬ前に聞くべきだったと後悔もします。辺見の父は地方紙の記者でした。彼が残した、新聞連載の戦争体験でも、加害については触れられていません。むしろ、辺見の父は戦後、何かが抜けてしまったように生きてきた、ということなのかもしれません。
 これを読んでいて、思い出したのは、田舎に住む伯父さんが、人を殺すときにどれほど血が吹きあがるかということを、しばしば語っていたことです。

 「「戦後」の墓碑銘」は、その変わらない戦後が批判の対象となります。
 戦後の歴史が、敗戦ではなく終戦の後の歴史としてある。戦後レジームからの脱却というとき、結果として米国の占領を受け入れるという倒錯。
 それはその通りだとは思うのです。
 けれども、そうした倒錯以上に、日本という国は、まだ戦後がはじまっていないのではないか、というのが、ぼくが感じていることです。
 戦前からたくさんものを引き継いでしまっています。政治家や財閥だけではありません。最近では、離婚後、女性の再婚までに一定期間が必要なこと、生物学的父親が法律と整合性がとれていないこと、といった民法規定は、明治時代からひきずっています。
 白井の見方とは異なり、日本はそろそろ真面目に戦後を始めなきゃいけないんじゃないか、というのがぼくの考えです。

 島田雅彦はぼくと同じ世代。「優しいサヨクの復活」というのは、そういったおっさんになった世代の言葉、ということでは、何となく共感してしまいます。何となく、居酒屋で盛り上がりそうな内容っていうのが、微笑ましいのですが。
 でも、こうしたメッセージの方が、とっつきにくい岡野の本よりも、人には伝わりやすいかもしれません。単純すぎる気もしますが。

 それにしても、安倍政権がダメダメなこと、安倍晋三は本当にアタマが悪いんじゃないか、とか、そんなことはみんなが思っていることだとは思うのですが。それがうまく批判できていないということに、むしろイライラしています。
 安倍晋三がすべての元凶というわけではないと思います。元凶になるには、アタマが悪すぎます。
 安倍晋三という人は、力強い軍隊を持った日本というものを夢想しているだけなのではないでしょうか。大日本帝国の幻影とでもいうべきでしょうか。
 国家が個人に優先する、と考えてみましょう。そのとき、強い国家、誇りを持てる国家であれば、個人も誇りを持つことができます。たとえ個人がどれほど貧しくても、強い国家のメンバーであることが、満足を与えます。そうした満足が欲しいというのが、安倍晋三の幼児的な考えなのではないでしょうか。
 そうしたこととは別に、日本経済がどうやって生き残っていくのか、という選択肢があります。高度経済成長期と異なり、パイは限られています。それを配分するときに、資本として集めることで、経済を活性化することができます。あとは、安い労働力を供給するだけです。
 2000年以降、雇用の規制緩和が拡大し、非正規雇用が増え、先進国の中で異例ともいえるレベルで平均賃金が下落しつづけた、その延長に今の日本があります。その安い労働力によって、日本の大企業は生き残ってきました。こうしたしくみをつくってきたのは、安倍晋三ではありません。彼が登場する前からのことです。竹中平蔵をブレーンとするようなグループとでもいいましょうか。
 けれども、貧しい国民も、誇りを持てる国家であれば満足します。そこで、日本の経済界と安倍晋三の利害が一致したということでしょう。
 こうした国家と国民の関係は、米国ではすでに成立しているのではないでしょうか。米国もまた、先進国としては高い貧困率、低い社会福祉という国になっています。
 日本は米国に隷属している、とよくいわれますが、その米国の中に、多くの米国民は含まれません。ふくまれるのは、米国経済です。それを単純に米国といってしまうと、何か誤解が発生するのではないでしょうか。
 TPPは米国民にも不評です。同じ問題を抱えているのです。

 戦争法の成立によって、日本は戦争のできる国になったといいます。でも、そんな単純な話なのでしょうか。
 安倍晋三は戦争をしたいと思っているかもしれません。彼は、戦う日本というものに、陶酔できる人なのでしょう。
 しかし、本質は、貧困をつくりだし、経済を活性化させることだと思っています。
 貧困は経済的徴兵制につながります。戦争が想定されるようになれば、軍需産業が儲かります。戦争は儲かるのです。実際に、日本は朝鮮戦争で儲けてきたのですから。
 したがって、貧困を創り出す政策は、戦争法と表裏一体なのだと思います。
 そして、飼いならされる日本人をつくりだすような教育政策も、ここにつながってきます。

 それにしても、70年間で、いろいろなことが忘却されてしまうものなのでしょうか。
 「コンクリート・レボルティオ」を見ながら、考えてしまうのです。
 今年の初め、「ウルトラQ」の再放送を見ましたし、「ネオウルトラQ」も見ました。それぞれが、時代の香りというべきものを持っていました。あるいは、「ウルトラセブン」では、沖縄が侵略された経験というものも、反映されていたと思います。
 サブカルチャーの中であっても、戦後というものは、語られてきたはずなのです。
 そうした、戦後というものを、「コンクリート・レボルティオ」はどこまで踏襲できているのでしょうか。それは、もう少し見なきゃいけないのかもしれません。

 小津安二郎に対して、辺見ほど批判しようとは思いません。批判はあたっているのかもしれません。けれども、小津は小津なりに、日本のある部分が壊れ行くこと、価値観が変化していくことを感じ取り、フィルムに残していったのだと思っています。
 「東京物語」ではすでに、大家族が壊れてしまっていること、高齢者世帯の姿、それが描かれています。その先に何があるのかは、小津はフィルムにすることはありませんでした。
 そして小津の死とともに、事実上引退したのが、原節子でした。原もまた、過去の中だけでひっそりと生きていくことを選んだということでしょうか。
 小津が描いた日本は、死にゆく日本だったと思います。でも、それで良かったのだとも思います。その先は、生き残った、新しく生まれた監督の仕事としてあるのだと思います。
 けれども、それをゾンビのようによみがえらせたい、何事もなかったように。そう思う人たちが、たくさんいるということが、今はとても、不快に感じるのです。