こちら葛飾区水元公園前通信700

 このところ、眠りが浅いせいか、よく夢を見る。けれど、だいたい忘れてしまうので、あまり夢日記を更新していない。けっこう、おもしろい夢を見ているんだけどなあ。

 国民投票法参議院で可決、成立した。これによって、憲法改正に向けたスケジュールが固まったことになる。
 最低投票率が決まっていなかったり、公務員の関与が限定されていたり、放送において意見を主張することが限定されていたり、などなど、いろいろな問題がある、ということですけれども。
 しょうがねえなあ、とは思うのだけれども、あまり落胆もしていない。というのも、前回の総選挙で、この方向を選んでしまったので、それはそう簡単には止まらないと思っていたからだ。あの選挙は表向きは「郵政民営化」だったけれども、その背後でもっと大事なことが問われていた。けれども、そのことが見えないまま、「郵政民営化」だけが支持されてしまったというものだった。
 さて、ではこれからどうなるのかというと、まあ、今の流れであれば、憲法は改正されるだろうなあって思う。憲法改正の争点が第9条である限り、改正の本質は見えないのではないかと思うのだ。
 本当に、多くのメディアは第9条ばかりを強調している。でもどうなのだろうか。ぼくはむしろ、改正によって第3章に書かれた「基本的人権」という思想が壊されていく方が問題だと思っている。そして、この思想を十分に浸透させていないからこそ、第9条に対して受け入れられない人が今なおいるのではないかと思っている。
 そもそも、日本人は憲法基本的人権を生きていない。
 例えば、赤ちゃんポストが話題になっているけれども、ここでも、放置される子どもの視点では語られない。親の責任は言われるけれども、子どもにとって、「放置するような親と生きる」という義務はないはずだ。
 死刑についても、同様である。被害者の家族の悲しみということがよく言われるが、では加害者の家族の悲しみについて語られることはあっただろうか。
 日本がほとんど難民を受け入れていないということ。北朝鮮拉致問題については主張する一方で、さらにそれより昔に起きた朝鮮人の強制連行や従軍慰安婦については解決済みだとして、調査しようとすらしない。
 いまだに、夫婦別姓が受け入れられず、離婚後の300日規定が残り、嫡出子と非嫡出子の差別が残る。個人よりも「家族」という秩序を優先させる発想が生きている。
 何年も前から、「権利ばかり主張するのではなく、義務も」ということが言われている。
 でも、この国で、「人間はどのような権利を持っているものなのか」という議論がまともになされただろうか。「環境権」を新しい権利だなどと言えばいいという問題ではないと思う。
 そして、こうした「基本的人権」を生きていない、その根底にあるのは、「他者への想像力の欠如」である。そのことは、他者の人権を想像できない社会をつくり、前述のような問題を引き起こしている。そして、同様に、他者への想像力の欠如が「武力による防衛」という発想しか生まない。したがって、第9条を生きることができず、改正ということになる。
 たぶん、改正までの3年間の間に、こうした思想の基盤が一般的なものにならなければ、憲法は改正されるだろう。
 では、参議院選挙の争点は?
 「他者への想像力」が欠如した政治は、国民を幸せにしない。

 松井賢一の「国際エネルギーレジーム」(エネルギーフォーラム)を読んだ。仕事がらみではあるけれど。戦後の石油、原子力地球温暖化のレジームが語られ、また電力自由化がレジームをつくらなかったことが語られる。国際的にどのような枠組の中で動いてきたのか、今後動いていくのか。個人的には、とても勉強になった。エネルギーの専門書というだけではなく、経済を語る上での一つのサンプルとしても。
 どうして9電力体制になったのか、とか、電力自由化がどのようなコンテクストで語られてきたか、とか。COP3をめぐる日本政府のどたばたも簡単にまとめてあるし。
 まあ、原子力には肯定的だし、京都議定書にはやや否定的ではあるけれど、そういうことは乗り越えて、記述は公正だと思う。
 でもまあ、もらった本なのでなんですけれど、3000円(税別)なので、買って読む人は限られるでしょうけど。専門書だし。