こちら葛飾区水元公園前通信694

 今週は何だか忙しかった。あちらこちらで人と会ったりしていて、ばたばたして。それでは来週はというと、書き物がいっぱいたまっているという状況。まあでも、少しずつ、仕事のペースができてきたのかな、ということかもしれません。

 ようやく、庭のチューリップが咲き始めました。最初に咲いたのは、娘が友達からもらったという、「赤ずきん」という品種。メルヘンチューリップなので、背が高くならないということなのだけれど、これは生物学的に言うと矮生ということになるのかな。
 チューリップは、毎年球根を植えているのだけれど、前年までの球根も土の中に残っているから、どんどんといろいろな種類のチューリップが咲くという状況になっています。しかも、チューリップごとに咲く時期がずれているので、けっこう長く楽しめます。
 気になっているのは、実生のものがあるのかどうか。チューリップも花ですから、実ができることもあります。それで、種もできたりしたのですが、これが芽を出して成長するものなのかどうか。

 春といえば、そのちょっと前、子ども達に娘の友達を加えた4人で公園に行き、つくしをたくさんとってきました。つくしって、ちょっと荒れた土地じゃないと生えていないんですね。土手というのがよく見られるところだったりしますけれど、公園でも辺境にあたるところでよく見られたりします。まあ、つくしはスギナの胞子体なわけで、スギナというとけっこう嫌われる雑草ということにもなってますから、つくしそのものをとっても、そう問題はないとは思っているわけです。そのぐらいでいなくなるような植物ではないということです。
 つくしはちゃんと食べました。持って帰って、卵とじしたコンソメスープにしました。トラディショナルな料理ではないですけれど、これが一番食べやすいかなあって思っています。下ごしらえにけっこう手間がかかるのですけれども、まあ、ちょっと苦味のある春の味っていうところですか。でも、そのくらいのもので、娘の友達に「料理が上手」だと言われてもなあっていう。そもそも、よそさまの娘に野草を食べさせる親ってどうなのよっていうのも、あるかもしれませんけれどね。以前にもスダジイの実を一緒に食べたし。

 大塚英志の「サブカルチャー文学論」(朝日文庫)は、厚い本だったのだけれど、どうにか読み終わりました。かなり繰り返しが多いので、まあ、その分早く読めるし、テーマはあくまで江藤淳が提起した問題、文学とサブカルチャーの境界線ということになる。
 江藤は村上龍の「限りなく透明に近いブルー」を徹底して批判し、一方で田中康夫の「なんとなく、クリスタル」を絶賛した。その間に引かれる線というのは何なのかということです。ここを起点に、吉本ばなな村上春樹中上健次三島由紀夫大江健三郎石原慎太郎などを論じていく。けれども随時、江藤に戻っていく、そういう文学論です。
 結局、石原慎太郎だったか大江健三郎だったかの圧力で連載は中断してしまうのだけれど、大塚としてはその後の「更新期の文学」において、文芸評論にケリをつけた形になっているということです。
 大塚がやろうとしたことっていうのは、サブカルのサイドから文学を見るっていうことでした。そこで最初に引っかかるのが、江藤の「成熟と喪失」なわけです。この作品は、小島信夫の「抱擁家族」を論じた評論として有名で、上野千鶴子も涙を流してしまったという。
 「抱擁家族」というのは、主人公の男性が妻を外国人に寝取られる、けれども妻の魅力から離れられない、そうしているうちに、妻は病死してしまう、そういうストーリーです。ぼくも読んだけれど、本当にその妻が魅力的に描かれていました。
 江藤はこの作品の中に、成熟しない男性としての主人公が、妻に母を求めつつ、それをアメリカによって奪い取られるという、そういう「戦後」を見るわけです。
 そして、サブカルであるということは、文学がもはや伝統的なものではなく、戦後の構造に大きな影響を受けて、新しい文化の流入によって成り立っているのではないか、そういったことになるかと思います。
 江藤は村上龍に対し、もはや屈託なくアメリカを受け入れ、そこに内面すら感じさせないような、そういった批判をします。でもそれはやはり戦後である、という批評を明確にしてしまった田中については絶賛する、そういうことなのです。
 そこから大塚も線を引こうとする。けれども、正直なところ、引いた線を読み取るために、厚い本を読むというのは、少々退屈、ということでした。
 個々の作家に対しては、いろいろな見方を示してくれていて、面白いんですけれどもね、本当は。村上春樹が実は日本の作家を昔から読んでいるのではないか、庄司薫と重なるのではないか、とか、三島由紀夫とディズニーランドとの関係とか。
 あと、阪神淡路大地震地下鉄サリン事件によって、多くの文学者が文学の限界を口にしながら、その後の神戸での14歳による殺人事件ではあっさりと復活してしまうことって、どうなのよ、っていう大塚の指摘はその通りだと思いました。村上と大地震・地下鉄サリンについては、かなり以前書いたし、村上がそうであるように、ぼくは文学の危機だとは思わなかったし、だから復活ということではないとも思っていましたから。
 結局のところ、大塚が求めているのは、文学者に対して、自分のポジションに対する誠実さなのではないか、と思います。大塚は文学がどうあるべきかということは語っていない、それはサブカルという大塚のポジションからは関心の外にある、けれども、文学が、少なくともサブカルの部分に足を踏み込んでいるのであれば、そこは落とし前をつけておきたい、そういうことでしょう。そうすることによって、サブカルが必要以上に貶められることだけは避けなくてはいけないでしょうし。

 というわけで、アニメの「鋼の錬金術師」を見始めてしまいました。こんなにベタベタした兄弟って、気持ち悪いよなあ、などと思ってしまうし、錬金術が科学だって言われてもなあ、ということではあるのですが、等価交換という原則が全体を覆っていて、それはそれですごく意味のあることだと思っています。
 何かを得るためには何かを失わなくてはいけない、という。

 開幕戦、ヤクルトは負けてしまいました。