こちら葛飾区水元公園前通信747

 747というとジャンボジェットですね。

 文芸春秋の4月号に、村上春樹がなぜイスラエル文学賞を受け取り、スピーチを行なったのかということを書いていました。まあ、皮肉を言えば、表紙に「教科書が教えない昭和史」と書いてあり、順番としては皇室ネタの次に掲載されている、ということですが。
 でも、結論から言えば、村上が授賞式に参加するためにイスラエルに向かったことは、まちがっていなかったと思うのです。スピーチも含めて。
 村上はエッセイで、受賞すべきかどうか迷ったこと、さらに年末からイスラエル軍がガザに侵攻していることを前にして、一度は受賞すると伝えたものの、再度迷ったことを述べています。その上で、イスラエルに向かい、スピーチをするほうが、小説家として正直な行動だと考え、そうしたということです。
 受賞を辞退するという選択肢もありました。また、そうすべきだという意見もたくさんありました。少なくとも、村上春樹というブランドを傷つけることになりかねない、ということもあったと思います。
 ですが、考えた末に、何がベストかという選択は尊重すべきだと思うのです。エッセイの中で、村上は、ただイスラエルの人の前で話しただけだと語っています。ですが、あの場所で、名指しは避けるにせよ、イスラエルを非難するというのは、たやすいことではないと思うのです。かつて、ノーベル平和賞を受賞した首相すらがテロによって暗殺された国なのです。靴が飛んでくるくらいは覚悟しなくてはいけなかったかもしれません。
 スピーチの映像はニュースでずいぶんと流されましたが、けっこう鬼気迫るものがありました。

 村上がスピーチすることで、何か変化があったでしょうか。たぶん、大きな変化はなかったと思います。そんなにすぐに小説家のスピーチくらいで世界は変わりません。でも、そのことはイスラエルだけではなく、日本にも何かを残したとも思います。村上のスピーチによって、村上の読者はイスラエルという国のことを知ることになったのですから。
 辞退という選択肢もありました。そうすべきだという意見にも一理あるでしょう。イスラエルに行かないという選択肢もありました。スーザン・ソンタグのようにビデオを送ればよかった、という。
 でも、そうした意見にどんなに正当性があったとしても、村上が自分が小説家であるという立場に立っての選択は尊重すべきだと思うのです。ひょっとしたら、ガザにとっては、多くの意見がそうであるように、村上が辞退したほうが良い結果をもたらしたのかもしれません。でも、そうした判断は、村上にゆだねられるべきだと思うです。

 村上のスピーチの映像が鬼気迫るものがあった、と書きました。このとき、村上はイスラエルだけではなく、日本にいて、村上の受賞を批判する人たちのこともあったのかもしれません。エッセイで彼は孤立無援だったと書いています。

 一方、パレスチナに関連する本を2冊、続けて読みました。
 1冊は、岡真理の「アラブ、祈りとしての文学」(みすず書房)です。
 岡はアラブ文学の研究者なのですが、たぶんぼくの中では、上野千鶴子並には影響を与えている人です。岩波書店の「思考のフロンティア」では「記憶」を書いています。
 911のときに、WTCや旅客機の搭乗客がたくさん亡くなりました。その名前は、セレモニーで読み上げられています。ですが、その後、アフガニスタンイラクでの戦争では、さらに多くの人が亡くなりました。けれどもその人たちの名前が読み上げられることはありません。その人たちの記憶は消されていくのです。
 「アラブ・・」は、こうした人たちの側にたった文学について書かれています。
 ユダヤ人といえば、第二次世界大戦時、ホロコーストによって数百万人の人が亡くなりました。そしてそのことは歴史の中で大きな文字で記録されています。けれども、そのユダヤ人がパレスチナに入植し、そこで暮らしていた人々を追い出し、あるいは虐殺したことは、あまり記録されていません。そして、記録されなかった声を救い出そうということ、そこに残しておこうというのが、祈りなのではないか、そういうことなのです。

 パレスチナだけではありません。アラブ世界で抑圧されている女性の声、それはスピヴァクの「サバルタンは語ることができるか」という問いにも呼応するもの、そうしたものもまた、記憶として文学作品になっています。ぼくたちのようなアラブ世界の外側にいる人間は、単に女性が抑圧されているだけのように見えるかもしれません。でも、それはぼくたちの尺度で測るものとは違っています。そうしたこともまた、声としてそこにあります。

 飢えた子どもに文学が無力なのか。こうした問いから岡の本が始まります。たぶん、無力ではない、人の魂を救う祈りである、そういう結論でしょうか。
 そう考えたとき、村上が小説家として、言葉を持ってイスラエルに行ったことも、わかる気がするのです。イスラエルの人は「ノルウェーの森」をたくさん読むかもしれませんが、「ねじまき鳥クロニクル」を読むこともあると思うのです。あるいは、「アンダーグラウンド」まで訳されたとしたら、それはどうなのでしょうか。

 もう一冊のパレスチナ関連は、ネオミ・シーハブ・ナイの「ハビービー」(北星堂書店)です。出版社はいろいろと問題のある会社なのですが、作品に罪がありません。
 シーハブ・ナイはパレスチナアメリカ人の作家で、この作品は自分の少女時代に家族でエルサレムに帰還したときの経験がベースになっています。といっても、父親こそパレスチナ出身ですが、ネオミはアメリカ生まれで、初めてパレスチナに行ったことになります。
 ヤングアダルト作品として書かれています。テーマはキス、と言っていいでしょう。主人公はいくつかのキスを経験します。恋人だけではなく、親戚や友人との信頼のキス。けれども、そんな習慣はアラブ社会にはありません。
 キスという習慣が人を結びつけるものであれば、ユダヤ人とパレスチナ人がキスしてもいいのに、そう思いますが、そこには壁があります。壁は人を分断します。
 ヤングアダルトなので、プリミティブな作品に仕上がっていますが、自身の経験を長い時間かけて作品にしたシーハブ・ナイには、いろいろな想いがあると想います。結局、彼女の一家はアメリカに戻ってくることになったわけですし。そして何より、パレスチナ問題は何一つ解決していないのですから。

 本当なら、復刊されたカナファーニーの本も読めばいいのに、という突っ込みはアリかもしれませんね。

 記憶ということで、ちょっと思い出したのですが、この1〜3月のテレビドラマの中では、「ヴォイス」はとても気に入っています。検死を行なう法医学を志す学生が主人公。英太があまりにもいい子だったりして、突っ込みどころはたくさんあるのですが、死体の声を聞くということは、それだけですごく心に沁みる物語だったりします。その人の最後の想いというものを聞き取るということ。そのことは、岡が言う「祈り」に近いものだと思うのです。
 もうすぐ最終回ですが、DVDになったら、ツタヤで借りて見て下さい。