こちら葛飾区水元公園前通信652

tenshinokuma2006-07-06

 武乃湯廃業ということで、近所でまだ行った事のない銭湯に行ってみました。
 これまで行かなかった理由は、水戸街道を横断するのがめんどうだったから。でもまあ、子供たちがかつてかよっていた無認可保育園があるところのすぐ近くなので、実はあまり遠くなかったという。
 金町三丁目にある松の湯は、入口こそこじんまりしているけれど、設備そのものは新しくない銭湯。番台からロビーに改造しましたっていう感じで、洗い場はすごくゆったりした昔のままになっている。サウナもあるし。お湯は多少熱いけれども、客が少なかったのでけっこううめてしまったな。
 食べなかったけれども、ロビーではアイスクリームなども売っていたりします。
 とまあ、そんな銭湯に、息子と行ったのですが、帰りに、そのかつて通っていた保育園の園長に会ってしまいました。孫が生まれるそうで、実家をしているから大変よぉーなんて言ってましたっけ。

 保坂恵美子編「比較ジェンダー論」(ミネルヴァ書房)などという本を読んでしまいました。久留米大学教授である保坂が同じ大学周辺の研究者とともに出版した本なのですが、保坂としては、ジェンダー現代社会において重要なキーワードであると仮定し、これによって多角的なアプローチを試みようというわけである。
 ジェンダー少子高齢化社会といった問題については、まあ納得するような話ではある。むしろ、この本で最も関心があったのは、経済から見たジェンダーというテーマ。
 大矢野栄次による分析は、ちょっとおやっと思うかもしれない。男性的活動が女性的活動よりも評価される社会であるという分析を行っている。資本主義経済とはそういうものである、という。それはすごく冷たい見方だけれども、ある部分では真実なのだろうとも思う。けれども、こうした分析は人に何ももたらさないのではないか。
 その点、松尾匡の分析は、痛いところをついている。男性と女性の賃金労働と家事労働のそれぞれの分担を、ゲーム理論を使って、どうして現在のような結果になっているのかをよみとく。例えば、地震ゲーム。まだ同居していない男女を考えてみよう。地震があり、電話が通じないとき、安否を気遣うために、どちらが相手のところに行くのか。どちらも待っていてはあまり役得がない。一方、どちらも相手のところに行ってしまうと、くたびれもうけ状態でもっと役得がない。どちらか片方だけが相手のところに行くのがベストなのだが、それは男女どちらでもいい。このとき、女性が待っているものだという暗黙の了解が社会的にあれば、常に男性が動くことになる。これは便利なようだけれども、実は女性が動いた方が便利な場合であっても、男性が動いてしまうという不合理を生じる。
 松尾はこうした不当な暗黙の合意の中で、女性が家事労働を担当してきたと考えている。
 こうした分析を、現代の労働者にあてはめたとき、社会のIT化は熟練労働者をだんだんと必要としなくなってくるため、企業はより安い賃金で非熟練労働者をより必要とするようになってくる。その結果、ごく一部の熟練労働者のみが高い賃金を得る、より格差の大きな社会になるということだ。そこで、こうした社会に対し、個人それぞれが自分を生かせるような社会をつくっていく合意をしていくことで、それぞれの利益が最大化する(パレート最適な)ようにしていくことを提案している。
 法律とジェンダーという点について、松嶋道夫はいかに法律の中にジェンダーバイアスが込められているのかを分析している。けっこう、家族法もあんまりだよな、というようなものである。

 斎藤美奈子の「冠婚葬祭のひみつ」(岩波新書)はおすすめです。斎藤はいつも、膨大な資料を読み解いて、現代の常識って思っていたものが、実はたいして伝統がなかったりすることをあばきだしてくれるのだけれども、冠婚葬祭についても同様。家制度がもちこまれたのはたかだか明治以降だし、結婚式場や葬儀場なんて戦後のもの。カッパブックスの「冠婚葬祭入門」というベストセラーが、これをいかに形作ってきたか。何より自分らしい結婚式や葬式をするためにはどうするのかという提案まである。松尾は仕事の面からだけれども、冠婚葬祭からも自分を取り戻すことって、大切かもしれない。
 もちろん、結婚の常識にいかにジェンダーバイアスがかかっているのかっていうことも指摘されているのであった。

 ではでは。