こちら葛飾区水元公園通信877

tenshinokuma2018-06-13

 おはようございます。
 お元気でしょうか。
 現在、水元公園は菖蒲まつりです。
 
 今日もまず告知から。現在発売中の月刊BOSSの7月号に、コラムを書いています。まあ、前号同様に立ち読みでもしてやってください。

 今月のトレッキングは、東丹沢でした。愛川町あたり。高取山から仏果山をまわってくるという、前回と比べると楽なコースのはずでした。
 本厚木からバスで半原行き、手前の撚糸組合前で下車。そこから少し西に歩き、ハイキングコースに。
 まず、この季節の丹沢の良くないところは、ヒルがいること。まちがっても短い靴下とかダメです。といいつつ、途中で休憩して、汗だらけになったシャツを脱いでみると、お腹のあたりにいたんですけどね。まあ、下着の上からだったので、幸い被害はなかったわけですが、どうしてこんなところに、とは思いました。
 ハイキングコースの入口には、ヒルよけのスプレーがおいてあって、手足にかけてきたはずなんですけど、さすがにお腹にはかけていなかったですね。
 でも、ヒルが多いのは、湿った山の中腹までです。

 さして高い山ではないのですが、気温も湿度も高いせいか、けっこうへばりました。へろへろになりながら登っていました。
 ただ、丹沢でも比較的地味なコースなので、登山客は少なかったし、のんびりと登れたのは良かったですね。
 高取山も仏果山も、山頂に展望台があります。まあ、山頂だと周囲の木が高いというのもあるのですが、展望台も3階くらいの高さはあるのかな。ここまで登ると、360°いい景色です。とりわけ、北側にある宮が瀬湖というダム湖が美しい色をしています。まあ、ダム湖を美しいといってしまうのは、少しはばかられるのですが。
 6月ともなると、花は限られてくるのですが、そのかわり、モミジイチゴナワシロイチゴ?の実を見つけ、おいしくいただきました。
 ということで、これから暑くなるので、トレッキングはしばらくお休みします。
 釣りに行きたいのですが、誰か、一緒に行きませんか?

 このところ、ずっとフェミニズム関連の本を読んでいる、ということは言いましたよね。
 例えば、サラ・サリーの「ジュディス・バトラー」(青土社)、バトラーは折りにふれて読んでいたのだけど、忘れていることの方が多いし、整理するためにも読みました。バトラーの「ジェンダー・トラブル」はそれなりに刺激的な本だったし。そうそう、その「ジェンダー・トラブル」、最近になって新版が出ています。同時期に出版された、イヴ・コゾフスキー・セジウィックの「クローゼットの認識論」も新版が出ているので、併せておすすめしておきます。

 で、バトラーで思い出したのが。ジェンダーに対する考え方。ぼくはずっと、ジェンダーというものに否定的でした。社会的性差っていうのは、本質的なものではなく押し付けられたものなので、拒否すべきなのだと。
 でも、ジェンダーを自身のふるまい方を規定するものだとすると、その意味は違ってくるのかもしれない、とも思うようになりました。

 斎藤環の「関係する女、所有する男」(講談社)を読んで、そして鈴木大介の「フツーじゃない彼女」(太田出版)、あるいは笠原美智子の「ジェンダー写真論」(里山社)を読んで。
 斎藤の本のタイトルを読んで思い出すのは、アンドレア・ドウォーキンの「ポルノグラフィ」です。そこでは、男性というジェンダーは所有という形で性暴力をはたらく存在として告発されていました。
 けれども、斎藤は男性というジェンダーの属性として所有という欲望を持つものだとしています。そして。それはセクシュアリティに落とし込まれますが、その結果として、男女関係で困ったことになることもあるのですが、そうしたセクシュアリティを抱えながら異性愛の関係を築いているのが現実だとしています。
 所有という欲望を、自明のものとして相手に求めるということが正当なことだとは思わないし、それはやはり暴力になりかねないものだとは思います。けれども、相手と関係していくためには、うまく折りあいをつけていくべきものだとも思います。それが、自分のジェンダーと付き合うことだと思うのです。それは、笠原の写真論を読んでも思うのですが、これについてはあらためて、後日。
 それでも、所有という欲望を持つことは、やはり社会的性差としては、ゆがんだ姿だとは思うのです。

 けれども、そうした男性というジェンダーはさておいて、バトラーが主張するように、ジェンダーというものは、もっと多様なものであり、ふるまい方(パフォーマティビティ)であるとしたらどうか。鈴木の本を読みながら、考えてしまいました。
 「フツーじゃない彼女」は、リスカやKY(空気読めない)、ロリータファッション系の女性を恋人にしている男性の話です。そこには、男性に所有という欲望はあまりなく、互いにケアをしているという関係が浮かび上がってきます。そしてリスカもKYも、ジェンダーとしての一つのあり方だというようにも思えます。
 ついでに言うと、バトラーの見解とは異なり、それはセクシュアリティとは少しずれるものだと思いますし、それをセックスと言ってしまうことにはためらわれます。というのも、セクシュアリティの部分では、ごく普通の異性愛なので。
 それでも、ジェンダーを社会的性差とは違う見方をしてもいいんだということで、考えを改めました。

 ジェンダーが社会的性差である限りは、ぼくはなくなるべきだと思っています。求められるのは、斎藤が言うジェンダー・エクイティといったところでしょうか。ただ、ジェンダーはその人にとって身体的なものであれ成長の中で得られたものであれ、その人のふるまい方、あり方を規定してしまう形なのであれば、その人の権利の範囲においては認められるべきだとも思うようになりました。
 例えばそれは、いわゆる学習障害だったりするように、セクシュアリティとはあまり関係ないものだとしても、それがその人のあり方だとしたら、それは認めてもいいのではないか、と。
 自分が自分らしくあることを、身体を持って示す、そのために集会が行われる。バトラーの「アセンブリ」はそうした文脈の中にあるのかもしれません。

 あと、イアン・スチュアートの「無限」(岩波書店)も読みました。無限について、哲学的考察からカントールの無限の濃度までがコンパクトにまとめられています。ルーディ・ラッカーの小説を思い出す人もいるかも。
 結城浩の「数学ガール ポアンカレ予想」(SBパブリッシング)は、ヒロインのツンデレ度が低下していて。いや、そこじゃなくって、ポアンカレの予想に向かうアプローチはていねいでいいのだけれど、肝心の予想にたどりつかないという不満がありました。もっとも、数式を読み飛ばしているので、まあ、何ですね。

 10年ぶりのBASIAのアルバム「Batafly」がリリースされました。昔に比べると、ずっとジャズボーカルっていう感じが強い作品になっています。良くも悪くも円熟した、落ち着いた作品でした。こうした円熟と向き合うのは、いろいろ考えますね。自分が円熟からほど遠いからかもしれません。直近のライブアルバムは、昔の曲を歌っていると老いを感じさせてしまうのですが、今の彼女に合った曲を歌うっていうのは、いいことなのでしょう。
 今月は、これもまた久しぶりにSwing Out Sisterのアルバムが出ます。
 そういや、Bananaramaのライブアルバムには円熟はなかったですね。
 ってか、80年代の人たちばかりですね。

 最近、あまり料理をしていないのですが、てんぷら鍋をいただいたので、せっかくなのでてんぷらを久しぶりに作ってみました。
 それと、FBのフレンドがもずくのてんぷらを紹介していて、食べてみたくなったというのもあります。
 てんぷらは、たくさん食べられるものでもないので、ほどほどに。かぼちゃやなすなど野菜を中心にしました。
 ころもは、小麦粉と片栗粉のみ。ぼくの親は卵を入れるのですが、それだところもがパンケーキみたいになってしまって、かりっとした感じにならないので。
 いろいろ揚げてみたのですが、もずくの食感はなかなか良かったです。それ以上に、しめじのてんぷらがおいしくできました。
 結局、それほどたくさん作ったわけではないけど、食べきれなかったですね。それは翌朝、うどんの具になったりしました。

 ではまた。