こちら葛飾区水元公園前通信614

 昨日(8日)、郵政民営化法案が参議院で否決され、衆議員が解散された。自民党をぶっ壊すと言っていた小泉は、最後の最後でこれを実現したということになる。
 誰も関心を持っていなかった政策で解散というのは、かなりおまぬけな状況だし、そういう政府を持った国民も、それなりにおまぬけではあるんだけれども。
 しかも、総選挙の投票日は9月11日というわけで、これはあまりにも皮肉な日ということになる。

 繰り返すけれど、そもそも郵政民営化が持ちあがったのは、郵便局が集めた資金が、非効率に使われているということ、その投資先が利権になっていること、ということになる。その一端は、たとえば先日の日本病院学会における、東大病院の報告にも見られた。収益を考えずに高価な医療器具や新しい病棟を建設し、そのまま独立行政法人となって借金に苦しむという姿だ。
 郵便サービスは民営化した方が効率がいいという意見がある。都市部に住んでいると、そうかもしれない、とも思う。実は郵便サービスはある程度までの金融サービスとともに、コンビニエンスストアを拠点として成立するものだからだ。加えて、Eメールが使える現在、郵便サービスそのものが見直されることがあってもいい。
 にもかかわらず、全国レベルで見たときに、金融や郵便のユニバーサルサービスが保障されるのかどうかは、とても曖昧だった。加えて、民営化された郵便局が集めた資金が今まで以上に効率的に使われるようになるのかどうかも、不透明なままだった。
 民営化がすべて正しいという神話は、すでにイギリスの鉄道を見るように、破綻している。JRも同様である。民営化されたJRは主要3社においては効率的に経営されているように見えるが、地方3社はすっかり破綻したまま。赤字路線の廃止によって、ユニバーサルサービスができなくなっている、というのが現状ではないだろうか。同様のことが、郵便・金融サービスでも起きるという予測は、出てきてもおかしくない。

 今回の解散を別の視点で見ると、改革派と抵抗勢力との戦いということになる。小泉−竹中路線は、一貫して小さな政府を追及してきた。地方を切り捨てて中央に投資を集中させることで、経済的に強い主体を育てようとしてきたということだ。抵抗勢力というのは、地元に資金を導いていく、大きな政府を指向してきたグループ、典型的な土建屋政治家ということになる。そして、地方を切り捨ててきたことで、土建屋政治家が耐えきれなくなった、ということにもなる。
 地方への利益誘導に支えられてきた自民党がこの部分をカットするということは、確かに自民党をぶっ壊すことにつながっていったといえる。
 衆議員で郵政民営化に反対した自民党前議員にとって、もし賛成したら地元の支持基盤を失うというリスクがあった。そうしたとき、自民党−小泉という看板が、先の都議選に見られたように、かつてほどの力はないと判断されたのだろう。

 さらに別の視点で見てみよう。小泉の政治がともかくも最初は支持されたのは、政策ではなく、トップダウン型の意思決定にあった。ボトムアップ型、霞ヶ関依存型の政策決定では、国民サイドからは政策決定が見えなかった。その意味で、政策決定をオープンにした、結果として、道路公団民営化のようなどろどろを見せられたとしても、それはそれで悪いものではなかった。しかし、やがて暴走しはじめるようになる。911をきっかけに、イラク自衛隊を派兵し、強引に靖国神社に参拝する。結果として、バランスを欠いた外光と、何も解決されない経済政策が残されることになる。この暴走に対し、危機感を抱いた自民党前議員も少なくなかった。
 トップダウン型の意思決定は、迅速だし、わかりやすい。同時に、問題を残す決定をするトップの場合は、当然責任を追及されるべきだし、またより良い意思決定をするためには、十分な政策スタッフが必要だということである。だが、責任を追及する勢力も十分な政策スタッフも欠いていたことが暴走を生んだとのいえる。

 ということで、今後なのだが、実はあまり期待しないようにしたい。期待するとろくなことがないから。
 一番ありそうなのは、自公で過半数はとれないが、民主党での単独過半数も実現しないというところだろう。この状態で、小泉は失脚する。自民公認されない組(郵政民営化反対組)は新党をつくらないが、キャスティングボートを握ったことで、自民党復党を求める。これが受け入れられられれば、新しい総裁による自民党、新しい総理による内閣ということになる。そうしなければ、総理大臣を選ぶにあたって、岡田に投票する、ないしは棄権するということになる。後者の可能性が高い。極めて不安定な自公政権が出来あがるということになる。機能しない政府の誕生は、海外から見たときに国家経済リスクを高めるように見えるだろうし、財界の方々は歓迎しないだろう。だが、政治課題ごとに、バランスをとりながら運営していかなくてはならない政局というのは、実は国民の政治意識を少しぐらい育てるかもしれない。でも、あんまり期待できないけれども。
 その上で、政界再編、ということなんでしょうか。
 民主党に対しても、元々期待はしていない。そもそも寄り合い所帯なんだし。どうなることやら。
 社民党については、本当に思うのだけれど、民主党と共同歩調をとるか、共産党選挙協力をするぐらいのことをしないと、なくなると思う。まあ、後者は沖縄以外ではなさそうだし、今のところ、民主党との協力で動いているようですけど。でも、共産党にとっては、社民党との協力は、退潮が進む中で、政党のイメージを変える上でも、悪くないと思うんだけどな。

 とはいえ、こうしたぼくの予測は当たったためしがないということも付け加えておく。

 こんな状況の中で、読んでいた本はというと、辺見庸の「ナイト・トレイン 異境行」(文藝春秋)だったりする。もう10年以上も前の本なのだけれど、当時の復興してきたベトナムからの報告。米国はベトナム戦争で負けたと言われているけれど、「ベトナムベトナム戦争に負けた」という辺見の指摘は本当に痛々しいって思う。戦争で勝ったのなら、米国よりも豊かな暮らしをしていてもおかしくない。しかし現実は、米国人よりも多くの戦死者を出し、枯葉剤アメラジアンといった負の遺産を持ったまま、復興を進めているというわけだ。辺見のこうした視点が、現在につながっている。

 関満博の「現場主義の人材育成法」(ちくま新書)を読むと、元気が出る人と出ない人がいると思う。地方の産業振興のために、半端じゃない努力をしている人たちがいて、それが報われて成功する。その姿を見ると、すごいなあって思うし、しかもとくに優れた人という書き方はされていない。優れた人に育っていくことが重要だという。そういうことで、元気が出るかもしれない。けれども、そんなにがんばらなきゃいけないのか、とも思ったりもする。そういうぼくは、いいとこどりだけしたいって思うのでした。現場は大切だけれど、それを裏付けるものも必要だし、人生、余裕も必要。そんな風に思う。ぜんぶやっていたら、24時間あっても足りない。まして、本当に最近のぼくは、睡眠障害なのかもしれないけれど、うまく早朝の時間が使えなくなってきていて、つらいのである。

 というところで、今日はこのへんで。