こちら葛飾区水元公園前通信782

tenshinokuma2011-10-26

 毎月のように、宣伝からですみません。
 「トーキングヘッズ叢書No.48 食欲とエロス」が出ます。今月中に、本屋に並ぶと思いますので、今回もまた、よろしくお願いしますです。
 自分のことを書いておくと、今回は「パンティ&ストッキングwithガーターベルト」について書かせていただきました。
 たぶん、次回も宣伝ではじめると思います。というのも、ぼくの本が出るので。

 今月は、何だか忙しい休日が続きました。休みがなかったような・・・。地域のイベントを手伝ったりとか、近隣の小学校の周年行事に出席したりとか。何だか、子どもとあまり遊んでいないなあ。釣りも行かなかったしな。
 などと言いつつ、Wiiの「ドラゴンクエストI・II・III」なんぞを買ったりもしたんですけど。

 ゲームはいいや。
 本はというと、気になっているのが、宇野常寛で、「ゼロ年代の想像力」(早川文庫)と「リトル・ピープルの時代」(幻冬舎)を読んでいます。
 まず、「リトル・ピープルの時代」ですけど、これがタイトルからして明らかに村上春樹を論じたものだろうと思うんですけど、なぜか表紙は仮面ライダー
 宇野は、村上春樹と比較する作品としては、同じように多くの人々が接している作品であるべきであり、それがラノベやアニメ、あるいは特撮やテレビドラマだということです。まあ、これはそうだなって思う。「1Q84」に必殺仕掛人とか綾波レイとか登場しているくらいだから。
 で、宇野に言わせると、村上は、ビッグブラザーの時代からリトル・ピープルの時代に行こうとして、それでも時代の壁を超えられないという。冷戦がビッグブラザーの時代だとしたら、そこでは明確な正義があり、政治の季節があったという。けれども、安保闘争に代表されるように、政治闘争は挫折するが、後に冷戦も終了し、明確な正義や悪がなくなる、テロの時代、どこにでもいる小さな悪、リトル・ピープルの時代になるという。
 その境界に、「世界の終り(リトル・ピープル)とハードボイルド・ワンダーランド(ビッグブラザー)」が置かれ、これを追求していくように、村上は「ねじまき鳥クロニクル」「海辺のカフカ」「1Q84」と書いていくという。
 並行して、ビッグブラザーとして、絶対的な的とたたかう巨人がウルトラマンだとしたら、小さな悪と戦う方向に向かったのが仮面ライダーであり、そのことは平成仮面ライダーになって明確なところに到達したということだ。同時にウルトラマンが説得力をなくしていくという。
 もう一つ、大事なのは、ビッグブラザーとしての父とリトル・ピープルとしての父ということでもある。ぼくたちはリトル・ピープルとしての父を引き受けるということも。
 そういや、仮面ライダーってどれほど父の話だったか。クウガ響鬼は父親としての仮面ライダーになろうとした。キバやWは父(あるいはおやっさん)から受け継ぐ話だったし。とまあそんなところかな。
 ビッグブラザー時代の大きな物語からリトル・ピープルの小さな物語っていうのは、それこぞ小さな物語として、小さな場所のセカイ系やそのネガとしての空気系、その間に位置する「涼宮ハルヒ」ということになるのだろうか。
 とまあ、そんなことなんだけど、どうしてこれがひっかかったかっていうと、ぼくとまったく違う視点からの読みだから。「新世紀エヴァンゲリオン」は,母としての綾波レイを拒絶し、他者であるアスカに気持ち悪いって言われる劇場版のラストが、大きな物語ではなく現実の小さな物語を選ぶものだっていうのは、そうなんだと思う。それは、多くの人が受け入れている作品が持つ必要条件としての、社会の反映っていうことでもあるのだろうと思う。
 でも、ぼくはそうした読みをしてなかった。たぶん、個人の欲望っていう視点から読んでいたのだろうな。もちろん、その欲望もまた、社会を反映させたものではあるのだけれども、大きな物語とかビッグブラザーとかどうでもよくって、というか、そもそもビッグブラザーの存在を信じていないところがあって、世界の悪は、闇の権力みたいなものじゃなくって、誰の中にも存在する欲望の「やみくろ」だって思っているところがあって、そこからしか読んでいなかったな、という。つまり、リトル・ピープルの時代ということが自明すぎたから。でも、宇野の方がぼくより16歳も若いのにね。何でだろう。
 でも、欲望という視点から読むと、多くの人は、「エヴァンゲリオン」においては、アスカではなく母である綾波レイを欲望していたし、涼宮ハルヒではなく長門有希を欲望をしていたという、そんなもんじゃないかっていう想いが、ぼくには強い。
 そんなこんなで、宇野の読みに、いろいろと感じるというものなのであった。
 もっとも、ぼくの関心はというと、なぜ「友達が少ない」ことが流行っているのかなっていうことなんだけどね。「僕は友達が少ない」だけじゃなく、「ベントー」もそうだし、「この学園全員と友達になる」ことを目指す「仮面ライダーフォーゼ」もそうだな。「夏目友人帳」もそうかな。ぼくみたいに、元々友達が少ない人にしてみれば、まあ、あたりまえじゃん、みたいなところはあるんですけどね。

 あと、北原みのりの「アンアンのセックスできれいになれた?」かな。アンアンのセックス特集って、そういうものだったんだ、と目がウロコ。もっとも、実はフェミとセックスの距離の40年の歴史の本。コメントは、難しいな。

 最近、いいなあって思っているのが、みんなネクタイをしなくなったこと。昔からネクタイは嫌いだった。それで、よく変なネクタイをしていたんだよって、いまさらのように言ってみますが。
 だいたい、ネクタイって、何の役にも立たない。実はぼくは、ネクタイをするときは、必ずネクタイピンをしているのだけど、それはネクタイがたれてうっとおしいから。なのに、みんなネクタイピンをしていないから、あれでよく平気だなって思っていた。
 まあ、ネクタイしないだけで、夏は多少涼しくなったし、基本的に日本があったかいことを考えると、やっぱりじゃまだな、と思う。まあ、ネクタイしないだけで、原発がいらなくなるっていうことでもあるんだろう、とも思ったりする。ノーネクタイと原発、どっちを選びますか?
 ということで、どんなにおしゃれじゃないと指摘されようとも、基本、年中ノーネクタイにします。ということでよろしく。

 最近の愛聴盤は、「Levin−Torn−White」と「日常の合唱曲」だったりします。