涼宮ハルヒと田井中律のリーダーシップ

tenshinokuma2010-03-15

 昨日一昨日と、「けいおん」を見ながら、ふと思ったこと。
 ハルヒはともかくとして、律も軽音部の部長である。で、何となく頼りないイメージがあるかもしれないが、こういうリーダーシップはアリだと思った。
 リーダーというと、みんなを引っ張っていくというイメージがあるかもしれない。まあ、最近でこそ、サーバント・リーダーシップのように、後ろで支えるということも言われるようになってきたし、ノーマン・スピンラッドの「はざまの世界」の主人公はそんな感じだったということを思い出すけども。
 あるいは、明確なビジョンを示し、それを実現する方向に向かっていく、ということもあるだろう。
 でも、律の場合は、引っ張っていくということではないし、はっきりしたビジョンがあるわけではない。けっこう、ルーズなところがある。そうではあっても、軽音部で、あるいは放課後ティータイムで意思決定をしているのは、律である。というか、そのことによって、すべてが動いていく。
 律は担当する楽器がドラムス。秋山澪平沢唯のようなフロントに立つわけではないし、琴吹紬のようにコンポーザーとして、音楽を支えているわけでもない。おまけに、澪が言わないと、ルーズなままだったりする。
 それでも律は意思決定の中心にいて、メンバーの才能や個性を支え、引き出しているといえるのではないだろうか。
 ドラムスという楽器は無縁ではない。バンドをやっていると、リズム隊がどれほどまわりが見えているかということが大切になってくる。そこで、見えるからこそ、明確に欠けているものをフォローしようとする。それが律のポジションである。

 ハルヒと律が共通するのは、意思決定を担うということと、自分だけじゃダメダメだということだけだ。ハルヒは自分のビジョンを持ち、フロントに立って引っ張っていく。まわりはというと、ハルヒの想いを具体化するために、いろいろと苦労することになる。でもまあ、みんな納得しているから、まあ、その通りになっていく。どころか、ハルヒが至らないところを、とにかくフォローしていくことになる。
 それはなぜかというと、どういう形にせよ、そこで意思決定がきちんとできているからだ。映画をつくろうといえば、つくってしまう。充実した夏休みにするために、1万5000回も試行錯誤する。

 とまあ、そういうリーダーシップ分析だけだったら、まあ、どうっていうことではない。
 どうして、そんなことを考えたのかっていうと、ハルヒと律に共通するというところに意味がある。意思決定を担うことと、実はけっこうダメダメな性格だっていうこと。
 実は、リーダーって、ダメダメな性格であっても、意思決定ができればいいんじゃないか、ということだ。逆に言えば、意思決定ができないと、どうしようもないじゃん、ということだ。
 実は、いろいろな経営者やリーダーを見てきたけど、意思決定できないという人は少なくない。まあ、腰が定まらない鳩山由紀夫君もそうなのかもしれないけれども。
 でも、意思決定ができて、あとダメダメな部分はまわりがフォローしてさえくれれば、組織はどうにかなる。SOS団の献身的な活躍はそうだけれども、軽音部においても、律は澪に尻を叩かれるし、楽曲の作詞は澪、作曲は紬にまかせる。それでも、音楽は律のカウントで始まる。

 で、何が書きたいかというと、多少ダメダメな人でも、みんなが納得する意思決定さえできれば、リーダーとしてやっていけるということ。逆に言えば、意思決定ができなかったり、意思決定してもみんな納得できないようなものだったら、ダメということだ。
 リーダーといっても、そもそも完璧な人間なんていないのだから、必要な要件のうち、何を最優先で選ぶのか、ということだ。
 つまりは、そういうリーダーシップもアリ、ということなのだと思う。
 世の中、律より立派なリーダーですら、少ないんじゃないか、と思うのだった。

 ということで、写真は、今年も咲いた玄関の水仙