こちら葛飾区水元公園前通信748

 おひさしぶりです。

 もうすぐ、ゴールデンウィークですね。今年はみんな仕事がないせいで、休みが長いといううわさがあります。でも、ぼくはとりあえず、カレンダー通りに休む予定です。というか、仕事はたくさんあるので、本当は休んでいられないんですけどね。

 そんなわけで、トーキングヘッズ叢書の38号も出ました。今回もまた、ぜひともご購入くださいますよう、よろしくお願いします。テーマは「シカバネ」です。
 ぼく自身は、テレビドラマ「Voice」について書いています。

 あと、ついでに、「経営者会報」の5月号と、「電気と工事」の5月号でも原稿を書かせていただきました。前者は書店では売っていないのですが、でも中小企業の経営者の方々がぼくの記事を読んでくださるのかと思うと、ありがたいことです。後者は今後も定期的に書いていきます。こちらは本屋にあるので、ぜひとも手にとって見てやって下さい。

 えーと、今月、最大のショックは、J・G・バラードが亡くなったことです。4月19日でした。
 その欠落感は、予想以上に大きく、自分でもちょっと驚いています。以下、ミクシィのコミュに書いたものですが、再録します。

 文庫になった「楽園への疾走」の訳者あとがきで、バラードがガンだということを知り、そのとき、バラードにとって、ガンという病気がどういう意味を持つのだろうか、ずっと考えていました。
「クラッシュ」では、自動車事故というものにとりつかれていきます。けれども、ガンという病にはそういうものはあるのだろうかと。
バラードは自分の身体の中で、生命を維持するということに反する行動をとり始めた細胞が増殖していくことを、どのように考えたのだろうか、と。
 あるいは、言い方を変えるのであれば、自動車事故ではなく、自分の内部、自分のDNAの暴走によって、死に向かっていく。
 ガンは細胞そのものは、死とは遠いところにいます。悪性のガン細胞ほど、本体がいなくなっても培養していくことができる、そういうものです。だからこそ、抑制されることなく増殖していくわけですが。
 自分の裏庭に核兵器を置いてもいいと言ったバラードです。ひょっとしたら、暴走するガン細胞の立場に立ち、自分がその細胞にとってかわられていくということを、冷静に見ていたのかもしれません。
 あるいは、「終着の浜辺」は、自分の身体の中にあったということでしょうか。だとしたら、あまりにも文字通りの内宇宙すぎます。
 
 以上です。それでもやはり、バラードにはまだ生きていて欲しかったです。何より、時代がどのように変化していくのか、見ていて欲しかったと思っています。

 今月も、いろんな本を読んではいるのですが、なかなか紹介しきれないですね。
 そうした中で、注目は、山森亮の「ベーシック・インカム入門」(光文社新書)です。
 このところ、ベーシック・インカムに強い興味を持っています。というか、こういうことなのです。
 まず、第一に、今の経済のしくみの問題です。実は、J・G・バラードは「ヴァーミリオンサンズ」を書いていた頃、将来は労働は娯楽になるだろうと言っていました。技術の発達によって、そんなにあくせく仕事をしなくても豊かな生活ができる未来になるだろう、ということです。
 でも、現実はというと、まったくの逆でした。深夜まで仕事をする人は少なくないし、しかも豊かどころか、働いても貧しい暮らしをしている人が少なくありません。しかも、そうした人たちは非正規雇用として安易に解雇され、蓄えもなく、生活が破綻しています。
 豊かな暮らしのためには、お金が必要です。お金と引き換えにサービスや商品を手に入れることができます。したがって、お金が流通することが必要です。お金は目的ではなく、人々に豊かさを分配するための手段です。
 けれども、そのお金を手に入れるためには、労働しなくてはいけません。問題は、その労働が非対称だということです。みんながお金を手に入れるためには、相応の労働が必要ですが、豊かな暮らしのための生産力にはそれだけの労働が必要ないということなのです。したがって、まさに、お金をまわすためだけに、ぼくたちは過剰な労働をし、リスクをとらされているのではないか、ということです。
 ですから、そもそもあらかじめ、必要なお金を政府が支給してくれるのであれば、無理に働かなくてもいいのです。
 第二に、労働とお金の分離ということです。ぼくたちは子どものころから、「働かざるもの食うべからず」と教えられてきました。でも、これは大嘘でした。「働かなくても、食べていい」というのが本来あるべき姿だと思うのです。だって、日本国憲法は、健康で文化的な生活を送る権利があると書いているじゃないですか。その交換条件として、労働せよ、とは書いていません。
 まして、障害者は自分の生活を維持するための労働なんて、今の定義ではほとんどできないと思います。あくまで、「今の定義」でですが。でも、山森は生きていることだって労働だと言います。そういう考えもあるでしょう。
 その一方で、ワーキングプアという人々は、働いているのに食べられない人たちです。これって変です。でも、生産性の低い、あるいは経済的寄与の小さい、さもなくば付加価値の少ない仕事しかなければ、そうなってしまいます。労働市場の競争によって、必然的にそうなります。たぶん、ライターの仕事はある部分はそうだし、ウェブライターにいたっては、主婦の内職ですから。
 そして、報酬のともなわない労働もたくさんあります。家事労働がそれに該当します。あるいは、PTA活動のようなものもそうですね。お金にはならないけれども、自分たちが豊かに暮らすためには、生活や地域の中で無償の仕事を引き受けているわけです。
 第三に、過剰な生産をともなわない経済というのは、低炭素社会と相性がいいと思うのです。北海道に出張するのに、飛行機で日帰りしなくてもいいと思うのです。鉄道で1泊2泊で行けるはずです。昔はそうしていました。昔の生産性に戻っても、そんなに困らないはずです。何でもかんでもトラックで輸送しなくてもいいとも思います。時間がかかっても、鉄道でいいというものはたくさんあります。不要な仕事のために、不要な書類をたくさんつくらなくてもいいのです。無理に生産効率を上げるために、空調を快適にしなくてもいいとも思います。休暇がたっぷりとれれば、公共交通を使って旅行ができるはずです。不要な道路も建物も無理につくらなくていいのです。その分、畑を耕せばいいわけです。
 ベーシック・インカムがあったら、誰も働かないんじゃないか、という心配は無用です。お金以外のためにはたらく人はたくさんいます。ベーシック・インカムで不足すると思う人は、働いてくれます。ぼくだって、CDや本やゲームは欲しいし、うまいものが食べたいし、旅行だってしたいです。
 じゃあ、障害者はベーシック・インカムで十分ですか?という疑問。それにはいくつかの答え。必要な人にはそれ相応の給付、あるいは今の保険制度の延長にある9割の行政負担。
 財源はといえば、累進課税や消費税、固定資産税、法人税などいろいろ。だって、資産家に生まれた人間が働かなくても食べていけるのって、生まれながらにして不公平なはずだと思いませんか?
 山森の本にはそういうことが書かれてあって、なおかつ、海外ではけっこう大きな議論になっている、とか。
 今の経済破綻を反省した欧米が導入したりしたら、日本も導入する、と思う。1,2年は無理でも、10年後なら、あると思います。
 ということで、しばらくは、ベーシック・インカムだよ、と言わせて下さい。

 保坂和志の「書きあぐねている人のための小説入門」(中公文庫)、すっかり小説を書かなくなってしまったぼくですが、まあ、そうだよな、とは思います。芥川受賞作がもっとも出来が悪いと自分で思っているあたり、まあ、そうかもしれませんし。
 でも、この本を読んで小説を書いても、新人賞をとることはできない、と思う。いい小説を書くことはできるだろうけれども。その意味では、知人が言っていたように、大塚英志の「キャラクター小説の作り方」の方が実践的なんだろうけど。でも、そんな小説を読みたいわけじゃない。ただし、あえて言えば、いい小説であれば、大塚の理論で書いても、そこからはみだすものってあると思う。
 小説を書くということは、誰もやっていないことを書くというのが、保坂の主張なのですから。

 それにしても、このところ、政権交代が遠ざかっていくような感じで、とても気分がよろしくないです。
 まあ、1度の交代ですべてが良くなるとも思わないのですが。その意味では、山口二郎の「政権交代論」(岩波新書)にも言いたいことって、たくさんあるんですけどね。