こちら葛飾区水元公園前通信765

tenshinokuma2010-07-13

 参議院議員選挙が終わりました。まあ、もともと、あまりいい結果になるとは思わなかったのですが。残念なこともあれば、それでもまあ良かったこともあるんですけどね。
 失望はしていなくって、「ねじれ」の状況の中で、こども議員などと言われている民主党議員はタフになればいいと思うし。
 ベーシックインカムに関心がある、ということを年賀状に書いたのだけれども、つまりは、所得の再分配をどうやっていくのか、ということで、その中で、消費税も所得税法人税も一定の役割を持っていくものだと思っているので。消費税反対という政党の得票は決して多くなかったので、まあ、そういうもんかな、とも思っています。
 言いたいことはいろいろあるんですが、まあ、そんなことで。

 と、年賀状の話が出たのですが、ようやく、発送が終わりました。夏になって年賀状もないとは思うのですが。すいません、としか言いようがないですね。
 今年は、基本的に、住所のわかる人には、出しておきました。届かなかった人、ごめんなさい。住所がわからなくなってしまいました。

 先月26日、釣りに行きました。まあ、子供と行くので、何がしか釣れればいいというコンセプトです。ということで、場所は葉山町の芝崎。けっこう大きなベラとか釣れていたので、息子としては良かったのではないか、というところです。ぼくとしては、狙っていたメゴチとかも釣れたし。今回は、一部を刺身にしてみました。でも、ベラは塩焼きのが良かったかもしれません。

 次回は、また江戸川放水路でハゼかな、と思っています。

 円城塔の「Self−Reference Engine」(ハヤカワ文庫)を読んでいて、オールディスの「世界Aの報告書」を思い出してしまいました。
 世界は、こういうものだったのかもしれない、という可能性、でしょうか。物理学やコンピュータ技術が発達した分だけ、可能性は深められているとも思うのですが。
 はっきりしたストーリーのない、というか読んでもどんな世界なのかさっぱりわからない、短いお話がつながっている、そんな作品なので、苦手な人は苦手かもしれませんけど。
 それでも、円城と伊藤計劃が並べて語られる理由というのは、そもそも世界というのはどういうものなのか、という問いがあるような気がします。伊藤において、それは戦争に代表される巨大な意思の闘争というものが世界を構成している、とでも言うのでしょうか。それが円城においては、可能性の1つとして置き換えられる。いずれにしても、ぼくたちが感覚として持っている世界というものが絶対ではない、ということは共通しているのだと思います。

 ぼくはといえば、かなりちがっていて、過去や未来は可能性で語れるけれども、現在はそうではなく、多様な見方の積み重なったものだという感じです。
 多様な見方というのは、たくさんの人のことではなく、一人の人間の中にあるものです。マクロな世界とミクロな世界と言えばいいのでしょうか。それが、つながっているものだという。何となく、個人的なことは政治的なことである、というのと似ている気もしますが。

 村上春樹の「走ることについて語るとき、ぼくが語ること」(文春文庫)や「考える人」に掲載されたインタビューを読むと、村上についてというよりも、自分について考えてしまいます。
 フィジカルなこととクリエイティブなこととの間で、どのように存在しているのか、ということでしょうか。
 ぼくは、以前は毎週プールに通っていて、だいたい1500mを目標にしていたのだけれども、それは休みながらのものでした。多分、走ったとしても、やっぱり休みながら、5kmといったところでしょうか。村上は、歩くことはなかったと言うけれども、ぼくはやっぱりそういうことはない。
 実際に、トレッキングにおいても、休みながらだし。
 とりあえず、一昨年、本を書いた経験というのは、やっぱり同じことで、休みながらでもダッシュをくりかえせば、それなりの距離になる、といったものでした。
 そういうやり方でしか、ぼくはできないんだな、という。

 そういえば、村上はよくシステムの話をするのだけれども、そう考えると、1984年ごろのシステムから、現在は大幅に変更される時期にきているんじゃないか、ということを思っています。
 メディアということを考えると、既存の媒体が限られた役割になってくるでしょう。テレビを見なくなれば、テレビ局の収入は減るだろうし、iPadのおかげで、出版もある部分では紙が不要になる。
 でも、そういうハードのことだけじゃなく、電通のような会社が力を失っていくんじゃないかということも感じています。
 電子メディアはある部分がフリーであることで、アナーキーなものになっていくだろうし、そうしたものを支えるために、ベーシックインカムのような、とりあえず所得は保証して、自由を与えてしまうというようなものが、親和性が高いので、そっちに少しずつ動いていく、というようなことです。
 でも、こういう話をしても、仕事の周辺の人は、あまり理解してくれないということも事実。つまり、スマートグリッドのようなものって、システムの話じゃなくってサービスの話なんだっていうことなんだけど。
 ということでは、伊藤も円城も、アナーキーな世界をイメージしつつ、そうならない世界の姿を描いているのでしょうか。そんなことも考えてしまいます。

 そういうことでは、フルマラソンを走る戦略的なことよりも、ダッシュを繰り返す、ゲリラ的なことの方が、自分の中にあるものなんだな、ということにもなるのでしょうか。

 参議院選挙の結果に、失望はしていないわけですが、そうしたことよりも、技術がもたらす可能性や思想そのものの変革のほうが、ぼくには楽しく感じられる、ということも事実です。
 やっぱり、SF的には、ITの発達で、ローコストな知的生産が可能となり、その結果として、個人には大きな所得こそもたらさない場面が多くなったとしても、ベーシックインカムがそのアナーキーな活動を支え、社会が動いていく、ということになるのだと、個人的には思っています。
 まあ、そこまで行くのには、まだまだたくさんの時間がかかるわけでしょうが、そういう世界を見てみたいというのが、楽しみです。

 でも、そうした世界を見ることなく、鬼籍に入る人がいて、今日(12日)はものすごく落ち込んでいる、という中で、この文章を書いています。そういうことで、申し訳ないです。でも、書くことで、ぼく自身が癒されるということでもあるので、つきあってやってください。

 写真は、夕べ撮影した、都電の梶原駅です。