こちら葛飾区水元公園前通信887

tenshinokuma2018-12-21

 おはようございます。

 今日はまず、業務連絡から。
 12月28日に、秩父三峰神社に行きます。
 もし一緒に行きたいという方がいたら、西武秩父駅に午前10時集合ということでお願いします。
 神社に行き、温泉に入ってくる予定です。

 それから告知。12月25日発売の「週刊エコノミスト」にCOP24の記事を書きました。フラッシュというコーナーの小さな記事なのですが、立ち読みでもしてやってください。

 今月読んだ本から。

 倉数茂の「名もなき王国」(ポプラ社)は、なかなか凝った小説でした。短編集という体裁で、しかもそれぞれが主人公、そのいとこだったかな、それから亡くなった叔母のそれぞれが書いた小説ということになっています。しかも、小説の中で叔母がどのように生きてきたかも言及されるという、入れ子のような構造。どこまでが現実なのか、という組み合わせになっています。あるいは、山尾悠子風の幻想小説の短編もあるし。まるっきり自伝的な雰囲気の部分もあるし。ハードボイルド風のところもあって。とにかくいろんなものが詰め込まれています。
 J・G・バラードなんかにも言及しているので、そういった著者自身が影響を受けたものというのもよくわかります。という感じで、とても楽しく読むことができました。
 でも、あえて言うと、かつて影響を受けたであろうもののコピーの寄せ集めっていうのでしょうか、既視感のある語りと言えばいいのかな。
 そこがちょっと不満、といったところでした。

 アラン・ロブ=グリエの「もどってきた鏡」(水声社)も読みました。ロブ=グリエを読むのは久しぶりです。自伝的作品ということで、いかにして初期の作品「弑逆者」「消しゴム」「嫉妬」「迷路の中で」が書かれたのか。祖父のことなどなどが書かれている。でも何がすごいって、何が書いてあるのかがわかるということ。って、ふつうならあたり前のことなんだろうけど、ヌーヴォー・ロマンの作品って、そういうものじゃない。ロブ=グリエの作品って、緻密な情景描写がつながっていて、そこに動きを見出すのは簡単じゃないっていうか、そこに人の内面の本質が示されていて。という点では、読みやすかったんです。
 でも、記述ではあちこち時間はとぶし、自分の若いころも祖先もたいへんだったな、と。
 祖父の戦場での話、何となくクロード・シモンの作品を思い出します。というか、シモンのそれをロブ=グリエがものすごくわかりやすく書いているみたいな感じすらしました。
 シモンの小説っていうのは、人が感じ取っていることそのものを圧倒的な迫力で書いていく、でも感じていることが伝わる一方で、やっぱりどんな話なのかよく読みこめないものなのだけれど。でも、戦争における人の内面だけはそこに存在している。
 というのではなく、ロブ=グリエのこの小説では、何がこの作家をつくってきたのか、だな。そこに、祖父の話などが入ってくる。あるいは、小説を書いても売れず、農業技術者をしている、とか。けれども、そうして思い出される時間こそが、描きだされる内面なのかな。そして、それが鏡に映しだされるっていうことなのだろうか。

 宮内悠介の「彼女がエスパーだった頃」(講談社文庫)も、面白かった。というか、スプーン曲げとか、懐かしいですね。似非科学をテーマにした短編集なのですが。冒頭の火を覚えたニホンザルの話が好きですね。

 うっかり、こだまの「夫のちんぽが入らない」(講談社文庫)も読んでしまいました。あまり面白いとはいえない本でしたが、フェミニズム的な論点が多いというのはありますね。
 セックスにおける女性のコンプレックス、男性優位性など、女性がセックスを楽しむことが劣後していることが正当化される状況。母親の娘への支配。学校がいかにブラックな職場であるか。などなど。こうした問題にたいし、主人公が無防備すぎます。

 ヨシノサツキの「ばらかもん」(スクエア・エニックス)は18巻で完結しました。10年ですか。書道家を父に持つも、書道に疑問を持った主人公が、長崎の五島列島に移住させられ、そこの人々、とりわけ両親が近くにいない女の子のなると交流し、自分の書道を見出していくという。書道以外に何もできない主人公の不器用さを見守る周囲とか。地方でももちろん時間は流れていくのだけれど、自分らしく生きられる時間の速さっていうのを取り戻すっていうのは、必要なのかもしれません。
 ということで、面白かったので、これは機会があれば、ぜひ全巻よんでみて下さい。

 さくらいまの「東京銭湯パラダイス」(小学館)は、銭湯訪問のエッセイマンガ。著者がサウナーで、それなりにスペックの高い銭湯が紹介されています。読むと行きたくなります。まあ、ぼくの場合は、むしろいつなくなってもおかしくない渋い銭湯のファンなのではありますが、それはそれとして、本書を読んで銭湯へ。そのあとはビールですよね。

 先日は、ローラの呼びかけに応じて、ホワイトハウスに署名しました。って、本当はその前にしたんですけどね。
 辺野古の工事、いろいろ問題があるのですが。そもそも、普天間移設問題、オバマ大統領のときは、グアムで良かったという見解が示されたのに、日本が国内にこだわったということらしいです。沖縄に集中することが米軍にとってもリスクなのに、と。
 ただ、これだけじゃなく、最近はせっせと米国から兵器を買っている日本政府なわけで、もはや、米国のためにお金を使うことが目的化しているとしか思えないですね。
 じゃあ何のためにって、安倍晋三らは、米国にほめてもらいたいから、としか言いようがない。
 日本はむしろ独立国であることを放棄しているのではないか、とすら思えます。

 どういうことか。そもそも、日本経済は資本主義社会において、帝国主義的発展を経てきました。つまり、途上国との格差を利用することで、低賃金の労働力を得て競争力を持つ商品をつくり、新たに途上国の市場も開拓していく。
 でも、もう途上国がなくなってきています。というより、中国という巨大な国が途上国ではなくなっている。
 では日本経済はどうすればいいのか。欧州のような低成長の国にソフトランディングするという選択をしませんでした。そうではなく、日本の中に途上国をつくるという選択をしたのだと思っています。
 日本という国の中で安価な労働力をつくりだし、不足すれば安価な労働力を輸入していく。日本という国の多くの人々は豊かにはなりませんが、日本経済はまわっていきます。
 日本経済にとって、日本という国が独立国であるかどうかはどうでもいいということなのでしょう。
 民主主義も邪魔なのです。途上国が民主化するとストライキとか起きるし人件費は上がるしで、経済にいい影響を与えないので、途上国は独裁国家のままでいてくれた方がいいのです。

 そういうコンテクストの中で、外国人労働者の問題があったわけです。これがいいタイミングで、韓国で徴用工への賠償を認める判決が出ました。日本政府はこれを認めないということですが。
 そもそも、徴用工にしろ従軍慰安婦にしろ、日本政府がすべきことは歴史の中に位置付けることなのですが、それはさておき。
 現在の外国人研修生の制度が、徴用工と変わらない。日本政府は歴史から学ばないということですね。

 沖縄の辺野古基地の工事の問題ですが、ここでは沖縄県民の民意が反映されていないという指摘がなされています。それで民主主義といえるのか、と。けれども、沖縄は実質的に日本の植民地にされてしまっていると考えると、反映されないのが当然だということになります。
 もちろん、それでは困るのです。植民地はそこだけではなく、例えば原子力施設が集中する青森県も同様です。
 それ以上に、日本全体が植民地であり、税金を15円以上払っている男性しか選挙権がないような世界です。低所得者は植民地の住民なのです。
 いや、まだそうなっていないか。でも、将来的に沖縄だけが植民地でいいとは思わないし、そうであれば植民地は拡大する。そうであれば、逆に進めなきゃいけない。ということだと思うのですが。