枝野幸夫と夫婦別姓、惑星の思考

 「SIGHT」の冬号で、枝野と後藤田正純の対談が掲載されているのだけれど、まずは政界再編の対立軸。
 枝野は「選択性夫婦別姓の導入」である。前からそうだって知っていたけれども、あらためて強く書かれると、やっぱりそうだよな、って思ってしまう。本質的なことだからだ。
 多分、選択性夫婦別姓を認めるかどうかっていうのは、それはすごく表層的なのだけれども、でもその背後には、「人は本来、どのような権利を持っているのか」あるいは、「どういう権利を持っていると考えるように、思想的発展をしてきたのか」っていうことがある。
 って、わかりやすく書いてしまうと、選択性夫婦別姓っていうのは、結婚したって、自分は一人の人間であり、家族という要素に縛られるものではない、ということなんだと思う。というのも、家族構成がどうなのか、というのはプライベートなことだし、それはとやかく言われることではない。そういうことだと思う。
 そうではなく、模範的な家族のモデルがあって、そこで秩序を持ってたくさんの人が暮らしていれば、日本は平和だ、というのがこれに対立する考えなんだと思う。その延長には、「国の発展のためにがまんしてくれ」という1945年以前の思考が見えている。

 日本国憲法がそれ以前と大きく異なるのは、第九条だけじゃない。むしろ、すべての人を同じ権利を持つ個人として認めよう、そういう発想が入っていることだって思っている。また、そのことが第九条を支えていると思っている。けれども、日本国憲法ができてから先、そのことがどれほど深く考えられたのだろうか、とも思う。
 実際に、そうした権利を持つ人々を、どんどん切り捨てているというのが、例えば現在の高齢者政策であり、障害者政策ではないのか。あるいは、母子家庭政策を含む、貧困なセーフティネットではないのか。
 そうしたことをふまえてなお、選択的夫婦別姓は対立軸として正しい、そう思う。

 ということとは別に、宮内勝典の「惑星の思考」(岩波書店)を読み始めた。前々から関心があったけれども、mixiの足あとで見つけてしまったので、これもきっかけかなあって。
 まあ、それはそうなのだけれども、もっと言ってしまうと、9.11と村上春樹について書いたのが5年前。そこから、ぼくはどこまで来てしまったのか、ということを確認したかった、というのはある。
 編集者でありライターである、あわせてジャーナリストである、ということはそれは、やはりぼくみたいな人でもきちんと持っていたいこと、だとは思っている。そうした上でできることっていうのは、やはり1冊ずつ丁寧に本をつくっていくこと、記事を書いていくこと、でしかないのかなあ、と思う。
 他人の本を編集しながら、自分でも本を書いているというのは、編集者としてはめずらしいのではないか、とも思っている。その自分の本の中で、原子力問題について下書きを終わらせたのだけれども、やっぱりこれは擁護できることじゃないよな、と改めて思った。

 昨日、別の本の打ち合わせで、神道の話を聞いた。神道には、教祖も経典もないという。これは宗教ではなく、信仰である、ということだ。なるほど、って思う。
 国家神道という考えにはくみしないし、1945年以前の、現人神という思想を支持しないけれども、氏神ということについては、それを大切にしたいとは思う。そうじゃなくて、町内会の祭りには参加できないでしょ。それは、確かに「教え」を超越したものだと思う。それが、たとえば町内会共同体に生きていれば、それでいいのではないか、と。