こちら葛飾区水元公園前通信895

「こちら葛飾水元公園前通信894」

 

 こんにちは。

 

 今回はご報告から。

 

 まず、トーキングヘッズ叢書No.79「人形たちの哀歌」が、7月30日ごろに刊行されます。

 今回もまた、ぜひともご購読ください。ぼくもエッセイ「ジェンダーとしての人形」とか、ちょっと書いていますが、ほかにも読みどころはたくさんあると思います。

 

それから、「電力・ガス業界の動向とカラクリがよーくわかる本(第5版)」が、7月23日に刊行されます。まあ、改訂版ではありますが、書店で見かけたら、手に取ってみてください。こちらは、業界に関心のある方が対象なので、買ってくださいとは言いません。

 

 そんなわけで、7月21日の参議院議員選挙ですが、とりあえず投票はした方がいいよ、とは言っておきます。

 でも、今回の選挙、すごく異常な雰囲気です。マスメディア、とりわけテレビではあまり取り上げられないからです。

 政治はメディアによって操作されている部分というのはあるし、そのことに注意すべきだとは思うのです。よく考えないと、口当たりのいいメッセージに、簡単にだまされてしまいます。

 そういうのって、別に新しい話ではなく、SFであれば、ノーマン・スピンラッドの「バグ・ジャック・バロン」や「はざまの世界」で描かれていたものです。

 でも、今の日本で起きていることは、むしろ「報道しない」というものです。政治に関心を持たせないということ。投票日を知らない人も多いといいます。

 たぶん、フェイクニュース以上に、無関心でいてもらうことが、権力を持つ側にとって都合がいいのでしょう。

 そもそも、今のクソみたいな政府も、多くの人々の無関心の結果だと思えば、納得がいくというものです。

 

 報道されるべきこととしては、選挙の争点があります。年金だけじゃないですよ。

 ネット民は有権者のせいぜい2割くらいなので、ネットで起きていることと世間での認識には、ずれがあるのですが。それでも、それなりに影響力があって、れいわ新選組のブームも、テレビとは別のところにあります。

 北海道や滋賀県での安倍晋三演説現場での警察によるヤジ排斥事件はテレビではほとんど報道されていないのではないでしょうか。

 でも、ネットで話題になると、テレビもネタがないので取り上げてくれるという。まあ、それでいいんですけど。

 なんだか、日本はすっかりまぬけな国になっちゃったなあ、と思うのです。

 

 もっとも、報道しないテレビですが、そもそも地上波が終わりを迎えているとも思うのです。多様なコンテンツにアクセスできる環境で、限られた地上波の番組が優位性を持つことはないし、むしろそれゆえに、視聴者の最大公約数的な番組にならざるを得ない。好みが多様化すれば、最大公約数は小さなものになっていく。仕方がないのかもしれません。

 時間帯によって、視聴者がセグメントされているのであれば、むしろゴールデンタイムの方がつまらない番組になってしまうというものです。

 

 まぬけな話といえば、徴用工問題に端を発した、半導体材料の日本政府による韓国への輸出規制ですか。

 何となく、日本では、韓国が悪いみたいな論説がテレビでは多いのです。日本はもう賠償したから、とか。

 でも、韓国のことはさておいて、日本はいくつもの過ちをしています。第一に、日本は第二次世界大戦における「戦争犯罪」の総括を怠ってきました。慰安婦問題もそうなのですが、何も明らかにしないまま、国家による賠償だけを行ったため、個人に対する賠償は置き去りにされてしまいました。それを、主権国だけの問題だと言うことは簡単なのですが、後から明らかになった問題について、さかのぼって補償すべきかどうかというのは、きちんと話し合う問題だと思います。そして、その前提として、日本国内における歴史認識が、実は定まっていない、事実を認めようとしない、ということが、補償について議論することすらできない、ということにつながっています。そうなれば、韓国の国民感情は日本政府に向かざるを得ないと思うのです。

 さらに、問題が民間の、司法の問題になったときに、行政が関与できるものなのかどうか。原則から言えば、関与できないし、政府が解決すべきではない問題となってしまいます。

 そうした無理な状況でなお、トランプの真似をして輸出規制を行ったというのは、自分で自分を悪い状況に追い込んでしまったということでしょう。

 

 本来であれば、韓国が提案したように、両国政府で補償するのがいいと思いますし、さらに両国政府で、徴用工問題や慰安婦問題などの戦争犯罪の歴史と明確なものにしていく作業をするべきだとは思うのです。でも、日本政府はそんなことはしないし、そもそもそんな犯罪などなかったと教え込まれている人が多い日本ですから、支持も得られないでしょう。その結果、日本はますます孤立を深めるのではないでしょうか。

 

 積ん読だった、アラン・ロブ=グリエの「快楽の館」(河出書房新社)を今さらながら読みました。ヌーヴォーロマンは好きだったのですが、ちょっとご無沙汰していて。話の筋が見えないのだけど、何だか迫力あるイメージが迫ってくる小説っていうのは、好きなんです。

 で、「快楽の館」ですが、おもしろかったです。まあ、どんなストーリーなんだか、説明のしようもないのですが、「嫉妬」や「迷路のなかで」に比べるとはるかに読みやすい。視覚的イメージが伝わってくるからかもしれません。

 ロブ=グリエがシネロマンに向かって行くというのもわかります。「去年マリエンバートで」なら見た人も多いでしょう。性的妄想を通じて、その妄想を持つ男性の存在が示されるというしくみで、まあ、それが人の存在なんだな、と。その妄想を楽しむ、というところでしょうか。

 

 せっかくなので、ヌーヴォーロマンをもう一冊、ナタリー・サロートの「見知らぬ男の肖像」(河出書房新社)も読みました。

 こちらも、話の筋がよくわからない本です。一枚の絵を起点に、ミステリアスな主人公と老人とその娘の関係が描かれるわけですが。まあ、それだけです。それだけで十分というか。

 説明が難しいですね。

 これは昔、書いたことだけど、ヌーヴォーロマンって、そもそも、ぼくたちが生きていく上で、特にストーリーとかあるわけではなく、手触りのようなもの、そんなものの連続できかない、そのことを再現し、その主体に触れていく、というものだったと思うのです。

 とりわけぼくが、クロード・シモンが好きなのも、それが戦争をめぐる、不連続的思考のイメージによって伝わるもの、その迫力というものだったと。それが、サロートの場合、個人ではなく関係にフォーカスされていくのでしょうか。

 

 とまあそんな感じで、とりあえず明日20日はハゼ釣りです。

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