こちら葛飾区水元公園前通信751

tenshinokuma2009-07-21

 都議選が終わりました。民主党の圧勝ということです。他の野党が伸びなかったというのは残念なのですが。
 都議会として、次の4年間のお題としては、築地市場、新東京銀行、そして福祉関連政策、ということでしょうか。そのあたりを、民主党は訴えてきたわけだし、これはあくまでも地方議会なのですから。

 で、衆議院といえば、解散は21日、総選挙は8月30日。このごにおよんで、自民党はますます混乱を極めているという様子ですね。自分だけは永田町に戻ってきたいということなのでしょうか。
 ここまでぼろぼろになると、自民党は立ち直れないんじゃないかって思ってしまいます。立ち直れなくてもいいんですけどね。

 二大政党制ということがよく言われるのですが、そのことの問題っていうのは、少数意見が反映されないっていうこと以上に、声の大きい意見ばかり通ってしまうということです。
 例えば、教育基本法の改悪というのは、すべきではなかったと思うし、これは大局的に見たら、自民党政権のこの4年間の最大の問題だとも思うんです。だからこそ、自民党の議員を許すことはできないし、そこにけっこうましな人もいるにもかかわらず、その人も含めて、ということになります。
 たぶん、自民党の中でもみんながみんな、これを変えるべきだということに高いプライオリティを持ってはいなかったと思います。そして、多くの有権者はそんなことはどうでもいいと思っていたのではないでしょうか。たまたま、安倍が総理大臣になってしまうことで、このことが実現されてしまったけれど、それは、特別に大きな意見ではなかったと思うのです。
 でも、そういうことは、たくさんの議席を持っている政党であれば、その中でのマジョリティが賛成すればできてしまいます。
 何が言いたいかというと、法律をつくるためには、過半数議席を持っている与党の中のマジョリティが推進すればいいということなのです。
 ですから、選挙にあたって問われていなかったことでも、変化してしまう。まさに、現在の衆議院議席配分は、郵政民営化というただ1つのイシューで決まったことなのに、いろいろなことがなされてしまった、うしなわれた4年だったわけです。
 少数意見、というより、政党の思惑の向こう側で見えない意見というものは、どこに持っていけばいいのか。一つのイシューについて、それぞれのクロかシロかがあるはずなのに、それらをすべてひっくるめて、シロかクロか決めなくてはいけないというのは、不合理だと思うのです。
 さて、日本において二大政党制が問題だというのは、米国の政党と大きく異なり、党議拘束が強すぎることなのです。たぶん、そこがもっとゆるやかであれば、民主党社民党は一緒になれると思うし、イシューごとに、民主党内の旧社民グループは反対している、ということになるはずです。また、小選挙区で議員を選んでいく以上は、地元の利益も考えるはずですから、そこに反するような議員は、政党を超えて選ぶことができない、はずです。
 そう考えると、郵政民営化がテーマのときに、与党内に反対議員がいても、それを除名してしまうことは暴力的すぎたとも思います。
 今のような、党としてのしばりが強い状態のまま、二大政党制に進んでいくというのは、本当に暴力的なことだとは思うのです。

 そうした変化というものを、どのように起こしていくのか、ということも、とても大切なことだとは思います。
 まあ、次の総選挙では、小選挙区に関しては、民主党に投票しますが、比例は別です。

 明日19日に釣りに行く予定ですが、実は先週の日曜日も、息子とふたりで自転車で江戸川放水路まで行ってきました。ねらいはハゼ。まだ小さかったのですが、2時間あまりで30匹くらい釣れました。もっとも、息子はあまり釣りをせず、せっせとカニやアサリを捕まえていましたが。ハゼもカニもてんぷらになりました。
 ハゼがもう少し大きくなったら、また行ってみるつもりです。

 永井均の「マンガは哲学する」(岩波現代文庫)は、哲学として考えているということが、マンガでどのように表現されているか、というか、マンガだからこそ多彩に表現されているということが語られます。
 例えば、世界は自分がいるから存在するのか、といったこと。あるいは、自分の記憶を引継いだ存在は自分なのかどうか、ということ。
 読んでいて、そういえばそんなことって、高校生のときに、よく考えていたっけ、ということを思い出した。そして、マンガではなく現実において、認知症の人が最近のことを覚えられなくても過去のことは覚えているというとき、忘れられた昨日のその人というのは、すでに死んでいるものなのかどうか、ということを考えてしまうのである。小川洋子の「博士の愛した数式」ではないけれど、記憶が失われるということは、そしてそれが永遠に戻らないものだとすれば、それは、過去からいきなり現在につながる、新しいその人だけが常にいて、昨日のその人は死んでいるという。というか、あるところまでしか記憶を共有できない、クローンのそれぞれの綾波レイと同じことではないか、などとも思ってしまったが、そういう疑問を永井にぶつけてみたい、とは思いました。

 岩波ついでに、上野千鶴子の「セクシーギャルの大研究」(岩波現代文庫)も。親本は光文社のカッパブックス。よく、単行本から文庫に「落ちる」というけれど、この場合は、「落ちる」というより文庫に「上がる」と言った方がしっくりくるというものです。
 女性のしぐさやポーズの記号論的解釈というのは、今でも通用するとは思いました。ですが、上野の関心もぼくの関心も、そこからずいぶんと遠いところまで進んでしまったということも、痛感しました。記号ということでいえば、ぼくは常にそこから逸脱することのほうに興味があるし。

 一方、ちくま学術文庫は小沼純一編「ジョン・ケージ傑作選」ということになります。ケージの音楽って、そんなにまともに聴いたことって少ないのだけれど(ライヒをあれだけ聴いているのにね)、読んでいて思ったのは、この文章もまた、ケージの音楽の一部なんだな、ということです。
 じゃあ、ケージの音楽って何なのか、と言われても困るんですけどね。

 竹内薫の「バカヤロー経済学」(晋遊社新書)は、経済学としては、まあ、とてもわかりやすいのでいいのですが、それ以上にバカヤローの方が素敵です。竹内はサイエンスライターで専門は物理学。経済も説明されればわかる。ということで、竹内が講義を受ける形になっているのだが、講義をしている人は謎である。たぶん、元財務官僚のあの人ではないか、と思うのだけれど、どうでしょうね。
 役人も政治家も経済がわかってないのに、ダメじゃん、ということで、バカヤローなのです。
 この本の中で、1点だけ、そうだったっけ?と思ったのは、「大きな政府」と「小さな政府」というのがありますが、「大きな政府」というのは中央政府が大きいという意味で示されていることです。地方分権になれば「小さな政府」という。うーん、たぶん、中央政府にしろ自治体にしろ、住民にとっては、社会保障が大きいかどうか、民間でやるか公共でやるか、という違いだと思っていたんですけどね。
 まあ、この本の意味での、小さな政府というのは、支持します。というか、今までの中央政府は、箸の上げ下ろしまで自治体に指導してきたというのは、異常です。いろいろ押し付けて、でも財源は半分ね、という。嫌いだけどこの点だけは橋下大阪府知事の言うことはわかります。
 それと、大きな政府には財源論がついてまわるけど、そんなのどうでもいいじゃん、というスタンスは好きです。やらない理由として出ても、やらざるを得ないことには、どこかからお金が出てきている。
 ベーシックインカム推進派のぼくなんて、究極の大きな政府(ぼくがかつて思っていた意味で)論者なのだけれども。
 今日も、障害者と人権に関するイベントに行ってきたのだけれど、障害者の権利を守ろうとしたら、コストは当然かかることだということはわかるのです。でも、財源がないからできない、というのではなく、それは、基本的人権という理想を実現するための、支払われるべきコストだと思うのです。社会保障というものは、そういうものだし、そこを「必要不可欠なもの」として組み立てていかないと、自分で自分の首を絞めることになるはずなんです。
 それは、将来の年金がなくてもいいよね、答えは聞かないけど、みたいな議論になって返ってきてしまうものだと思うのです。
 使ったお金は、ポジティブにせよネガティブにせよ、解決されるし、それをいかに悪い方向にしないか、だけだと思うんですけどね。
 (ポジティブにっていうのは、インフレターゲットを導入して、景気を刺激し、税収を増やしつつ、インフレで借金を軽減していくこと。ネガティブに、というのは、日銀が発行する通貨の信用がなくなり、ハイパーインフレが起こること)

 コストと権利という話をしてしまうと、臓器移植法改正もよくわからない話でした。
 確かに、臓器移植が必要な人がたくさんいるというのはその通りだし、その中には児童も含まれています。その人たちに、臓器移植はほとんど無理なので、死んで下さい、とは言えないのです。でも、脳死のような状況でなお、寝たまま成長する子どもの家族というのはどうなのか、とも思います。でも、そのこと以上に、小児医療が崩壊しているという現実に、まったく手当てがなされないまま、特別な人だけを助けようというのは、それは「目に見える人を助け」「見えない人はそのままでいい」という、そんなことにされてしまっているのではないか、と思うのです。
 人の命に、どちらが大切か、ということはないと思うし、だからこそ、移植が必要な子どもというのは見えてしまうけれども、救急車でたらいまわしにされるリスクを背負った妊婦や子どもは見えないわけです。見えるものを救わないことは残酷なのですが、見えないものを救わないことは、残酷な気持ちを想像しなくてすむ、という別の残酷さを持っていると思うのです。
 生活保護母子加算とか、いろいろなものが見送られてしまいました。

 ということを、18日に書いたのですが、送信は21日になってしまいましたね。
 衆議院は解散されました。

 写真は、わかりにくいかもしれないけど、昨日、水元公園を散歩していてみかけたカニです。
 中川では何度もカニを見たけど、水元公園で見たのは初めてでした。