こちら葛飾区水元公園前通信886

tenshinokuma2018-12-01

 こんばんは

 今回は、トレッキングの話題から。今年最後のトレッキングは、神奈川県の弘法山でした。
 丹沢といえば丹沢方面ですが、表丹沢のさらに手前。小田急線の秦野駅からちょっと歩くと、弘法山公園の入口があります。コースとしては、ここから鶴巻温泉駅までです。
 公園の入口といっても、あまり目立たないのですが、ここから100mほど登ります。そして浅間山を通過してもうちょい登ると、この時点で、本日のピークとなる、権現山に到着。標高240mくらい。
 権現山の頂上はよく整備されているし、展望台もあって、なかなか気持ちいいです。ここまで、小学生の遠足コースという感じです。
 弘法山の山頂は、もう少し林の中という感じで、あずまやもあるし、弘法の由来のお堂もあります。で、ここで昼食。今回はめずらしく、秦野駅の小田急OXで駅弁などを買ってしまったので、がっつりお昼という感じでした。途中で買ったみかんもあったし。
 あとは、鶴巻温泉まで、だらだらとゆるやかなアップダウン。まだ紅葉には早いのですが、山歩きを楽しみました。
 鶴巻温泉では足湯。疲れた足がほぐされます。
 とまあ、この季節になると、日没が早いので、こんなところです。
 年明けは、3月くらいからトレッキングを再開したいですね。

 辺見庸の「月」(角川書店)を読みました。これはおすすめです、と言っておきます。
 相模原市の障害者施設で殺人事件があったということは、記憶していると思います。多くの障害者が、「生きる価値がない」として殺された事件ですが、犯人は国のためとして安倍晋三に手紙を書いている、とか、そんなことだったと思います。
 この事件にはいくつか論点があって、「生きる価値のない命ってあるのだろうか」という問いかけは大きなものだったと思いますが、ではそれに対する社会とはどうなのか、ということも問われていました。施設そのものが、社会と隔離されていなかったか、事件後に被害者の氏名が公表されなくて良かったのか、など。
 先に書いておくと、ぼくの考えは、障害者であろうとなかろうと、被害者の氏名(加害者の氏名も)を公表すべきではないということです。それは、プライバシーに関することです。
 さて、辺見はこの小説で、寝たきりの障害者を主人公に据えます。そのモノローグと、将来犯行におよぶ介護職員が主要な登場人物です。
 そして、その背景として、安倍内閣などの政治状況が語られます。あるいは、性に対する思い、生きるということの意味なども。
 けれども、相対として語られているのは、どうしようもない絶望です。徹底的な絶望が語られます。障害者のモノローグを通じて、どこにも希望のない世界が語られるということです。
 ひたすたくりかえされる「ロッカバイ」、子守歌。そこでは、サミュエル・ベケットが晩年に書いていた、最悪の彼方へと進んでいく人間の姿が重なります。
 それは、日本という国では、ひたすら生が消尽されていく、そんなことになっているのかもしれない、ということにつながっていきます。

 村田紗耶香の「コンビニ人間」(文春文庫)も読みました。
 そこにいるのは、コンビニの店員として適応するまでに退化した人間の姿なのかもしれません。その場所から見る風景は、あたりまえの欲望や規範に対して理解できない、違和感しかないというものです。
 こういう小説が売れているというのは、日本もまた、かつての南米のようなマジックリアリズムの世界に入ってきているのかもしれません。

 マジックリアリズムといえば、残雪の「黄泥街」が白水社のUブックスになりました。残雪の小説のうちでも、もっともわかりやすく面白い小説なので、この機会に読むことをおすすめします。
 公害で汚染された街の物語なのですが。でも、それはかつての水俣であり、現在の福島県浜通りの姿でもあります。
 結局のところ、ぼくたちはどんな世界に生きているんだろうっていうことになります。
 ところで、Uブックス版に訳者の新しいあとがきがあるのかと思ったら、訳者である近藤直子が以前書いた残雪論が収録されていました。
 それもしかたないことで、近藤はもう亡くなっていたということです。残雪の新刊は「最愛の恋人」以降、出ていないのです。

 Uブックスといえば、サンドラ・シスネロスの「マンゴー通り、ときどきさよなら」も最近出たので、こちらもおすすめしておきます。

 2025年には大阪万博をやるということですね。
 オリンピックといい万博といい、何も期待できないのですが。
 バブル崩壊を境に、日本の歴史は逆回しになっているような気がしてなりません。オリンピックや万博で経済的な発展が見込まれるとは思えませんし、それは日韓ワールドカップ愛知万博でも同じだったと思います。
 むしろ、ツケが残るというのが正しいのでしょうか。
 「所得倍増計画」というのがかつてありました。だとすると、2000年以降の日本は「所得低減計画」が進んでいるという感じです。もうだれも、「日本の人件費が高い」とは言わなくなりました。それでも外国人労働者を増やして、さらに人件費を安くしていこうということでしょうか。
 資本主義は経済発展のために途上国を必要としてきました。しかし、その途上国はなくなっています。最大の途上国だった中国はもうその位置にはいません。そうすると、日本は国内に途上国をつくるしかないということなのでしょう。
 逆回しの世界の先にあるのは、オリンピックや万博の廃墟であふれる「焼け跡」なのかもしれません。そして、戦争孤児である「浮浪児」のかわりに、見捨てられた高齢者があふれる路上なのかもしれません。
 政府の借金がとめどもなく増えた現在、円という通貨の信用度には疑問があります。その価値は、1ドル360円というものなのかもしれません。
 そうしたとき、せめて食糧くらいは自給できているのでしょうか? 農業も漁業も破壊されたあとは、日本に対して食糧支援が必要になっているかもしれません。
 日本という国における絶望というのは、多くの人が、だまされることを承知で、それでも夢を見ようとしていることなのでしょうか。安倍内閣の高い支持率は、甘言によるものだと思います。多くの人がいまだにねずみ講にひっかかるように、そのツケをいずれは支払うことになるのかもしれません。
 そんな絶望を感じずにはいられないのです。

 ということで、カール・ポープ&マイケル・ブルームバーグ著「HOPE:都市・企業・市民による気候変動総力戦」(ダイヤモンド社)です。
 日本においては、あいかわらず関心が低い気候変動問題です。ただ、市民活動としてこの問題に取り組んでいる人たちにとって、まずは政府を動かすということが優先されているのだと思います。多くの場合、政策が変わることは重要です。
 とはいえ、それを待っていても問題は悪化するばかり。一方、市場はそうした判断はしない。実際に、政府がいくら旗を振ったところで、原子力は進まないし、石炭火力はいずれ座礁資産となるリスクをかかえています。
 したがって、賢明な投資家はこうした案件には投資しないし、実際にESG投資(環境・社会・ガバナンスに配慮した投資)がクリーズアップされてもいます。
 ということで、石炭火力を止める運動をしてきたポープと元ニューヨーク市長のブルームバーグによる共著です。深刻な気候変動問題に対する希望を示した本です。資本市場は脱炭素化を評価しているし、だから再生可能エネルギーへの投資も増えている、技術開発も進んでいる、ということです。
 米国の本なので、どうしても米国の話になってしまうのですが、トランプ大統領がいくらパリ協定を離脱したところで、それではやっていけないという判断があるからこそ、カリフォルニア州などの自治体は協定を支持し、民間企業もそこに経営資源を投入していく、そして市民がこれを支持していく、ということは変わらないということです。
 
「HOPE」では、気候変動問題がクローズアップされています。けれども、ESG投資には、SDGs(持続可能な開発目標)が対応しています。そこには、他の環境問題や貧困、教育、ジェンダーなどさまざまな問題への対応が含まれています。
 日本に対して絶望しかないというのは、日本が持続可能ではなくなっているからだといえるでしょう。そうすると、日本への投資も人間もやってこなくなるでしょう。そのことに気付いたときに、日本の社会は変われるでしょうか? 変わらなければ、誰も相手にしなくなるだけです。それは政府だけではなく、市場にかかわるすべての人の問題だと思います。